むなしさとともに

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いよいよ聞き続ける

いよいよ聞かねばならない。

 

いよいよ自分の思いが、ますます破られ続ける。

 

破られることは、驚きであり、感嘆であり、悲歎でもある。

 

ますます自分の身の現実、心のありようを見せ付けられる。

 

あぁ、そうであったか。本当に思いの中から一歩も出ることができない。

 

今も迷いの只中だ。

 

それでも、欲生我国、我が浄土に迎えとらずにはおかん。必ず、往生を

 

遂げさせる、という本願力に促され、ただ念佛す。

 

転ずることも要せず、ありのまま、そのままを受け止める。

 

如来の足で受け止め、堪える。

 

ありのままを受け取って、ただ念佛す。

 

ただ念佛し、ただ耳で聞く。

 

聞かねばならない身と心を抱えているから、聞かねばならない。

 

終わりなき歩みとともに。ますます破られ続ける。

 

如来とともに。なむあみだぶつ。

依るべきもの(たのむべきは弥陀一佛)

『たのむべきは弥陀一佛、よるべきは念佛一行、

 そのことにいったい何の不足があるのか』

 

和田先生の言葉(信の回復(東本願寺出版部)P182-183)

 

本当に当てになるものは、一体何か?

 

本当に自分を大事にするということは、一体どういう事なのか?

 

思いに縛られ、比較というものさし、まなこでしか、

 

自他問わず、一切を認識することができないものを凡夫という。

 

では、凡夫とは、一体誰か?

 

それは、まぎれもない自分のことです、と頷かしめる光。

 

これを畢竟依ともいい、阿弥陀如来といい、無碍光如来といい、無上佛と申す。

 

畢竟依は決して捨てない。

 

念佛衆生 摂取不捨(観無量寿経)この佛語を灯とし、

 

僕は僕のいのちを歩む。そして、一隅を照らす。専修念佛を憑みに。

 

念佛者は無碍の一道なり(歎異抄

 

専ら本願を仰ぎ、ただ念佛す。自分の思いは関係がない。

自分と如来の関係には隙間がない。一体である。

 

他人の言葉に耳を傾ける余地がない。

 

われらはみな凡夫だから、

わけが分からなくて当然であり、妄想顛倒もやむを得ない。

善いとか悪いとかではなく、それが事実である。

 

善悪は僕にとっては重要ではない。それらを求めるのは、もうあきらめた。

 

僕には一切、何にもわからない。それが結論であり、事実である。

 

だから、専ら佛語に依る。如来の如実の言に依る。

 

それ以外にもう絶え果ててしまったのだから。

 

本願とともに。なむあみだぶつ。

追記あり 善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり

仏法を聞く、聴聞することを「善いことだ」と思っていないか?

 

「善い」から聞くのではない。

 

「聞かねばならない問題」を抱えているから、聞かせて頂くのであって、

 

「善悪」の区別のうえに、「善」を選んでいるから聞くのではない。

 

「善悪」に立って、仏法を聞いているのであれば、それは、

 

必ず「差別的」になってしまう。

 

だから、本当に気をつけなければならない、と教えて頂く。

 

善を選ぶと、必ず相対として、自分の逆を悪とみなす。それが自分である。

 

「聞かねばならない問題」とは、自分の存在そのものに問題がある、ということ。

 

他の命を奪わねば、存在さえ、維持さえできないわが身。

そして、差別心、貪り、瞋り、愚痴という三毒、わが身かわえやという我執。

 

こういう問題があるから、それらを超える如来の教えを聞かねばならないと

僕は頂く。

 

善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり(歎異抄

 

何が正しくて、何が悪いことなのかさえ、自分には全くわからない。

正しく見極め、実行し、選ぶ智慧がない。

自分が選ぶことは、時と場所と都合で、すぐにひっくり返ってしまう。

 

ひっくり返ることは真実ではない。

 

時、場所、人、いのちの存在。それらを全て貫くもの。

 

それを誠といい、真実といい、至心といい、無碍光如来という。

 

だから、専ら如来の教えを聞く。

 

自分にとっては、ただそれだけのことである。

 

善悪とか、因果とか、自分には皆目検討がつかない。

このような自分にさえ、悪だろうなと思わせる自分の行為は、

相当に悪なのだろうなとは思うけれど。

 

結果は知らない。ただ専ら仰せを聞く。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

180210追記

 

沢山のアクセスを頂いているので、今思いますことを。

 

如来はまじめになれと仰らないのです。

 

どうしてもまじめになれず、まことの善悪もわからず、

 

信心がない私の為に、わが名を称えるばかりで必ず助ける。

 

ほかに何もいらないと仰るのだと聞いております。

 

念佛を申せば、必ず耳に聞こえる。称えつつ聞けよの仰せ。

 

この一声のいわれを聞く。そこに親鸞一人がためなりけりと

 

述懐なさしめた無限大悲がおわします。

 

万人が平等に速やかに無上の覚りを得さしめんという大悲を

 

一途に聞くのであります。

 

人間に生まれた一大事因縁が成就するのであります。


2020.03.21追記


色々書いておりますが、結局は


これに尽きるのです。


今、助からない、どうしても煩悩から


離れられず、娑婆から一歩も出られない


自分に、如来は何と仰っているのかを


聞く。


ワレナンジヲタスケル

ワガナヲトナエヨ。


この仰せを南無阿弥陀佛という。


この仰せに帰す。


心境に用事なし。

存在の有様に用事なし。


如来の仰せに帰す。これだけが全てで


あり、ほかに何もない。


自分に信心はない。念佛にまで成って


下さった大悲を憑む。これが自分の


信仰の全てである。


故にわれ、善悪を知らず。ただ如来


助けられて往生させて頂くばかり。