むなしさとともに

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変わりどおしや

ある住職が、病に臥し、お見舞いに門徒の方がいらっしゃいました。

 

「ご住職、お変わりはありませんか?」

 

「わしは変わりどおしや。」

 

台風が来ています。暴風雨により、災害が起き、交通機関も

 

混乱が起こります。被災されたり、不幸に見舞われたりする方が

 

どうしてもおられます。それは、お気の毒であり、悲しいことです。しかし、

 

晴れの日があれば、曇りの日もあり、雨の日があれば、雨が降らない日も

あります。

 

一時として、留まる、止まることなく、常に刻々と移り変わっている。

 

人も、物も、自分も、心も。友も。

 

風よ吹かば吹け、雨よ降らば降れ。今を忍べば、また晴れの日が来る。

無明長夜の灯炬、わが身に具足し、ただ念佛し、ただ耳に聞こえる。

それだけでいいし、ただそれだけである。

 

本願とともに。南無阿弥陀

聞く理由

如来の本願を聞く理由。

 

善悪のうち、善を積む。宿善のため聞く。

 

こうではなく、聞かねばならない問題を、

 

癒やすことのできない深い悲しみを、

 

他と自分を分け、自分の思いに執着し、握りしめる、

 

こういう性を具足している自分だから、聞かねばならないのだと思う。

 

親鸞聖人が、善悪の二つ総じてもって存知せずと

 

仰っているのに、如来ほどに理解認識できるならば知っている、

 

わかるともいえるだろう。でも本当に何が正しいのか、何を悪と

 

おっしゃるのか、なんにもわからないのです。

 

自分にはこう聞こえる。

 

五濁悪時群生海 応信如来如実言(正信念佛偈)

 

聞いてくれよ、が如来の仰せ。それに応えて、ただ

 

聞いている。何を聞いてくれなのか。

 

如来所以興出世 唯説弥陀本願海(正信念佛偈)

 

弥陀の本願とは、念佛往生の誓願。

 

念佛を離れて、本願はなく、本願を離れて、念佛はない。

 

一つ、不一不二、表裏一体である。

 

そして本願念佛の謂れ、生起本末を聞けよ。お念佛の心とも

 

いえると思う。それを大悲という。

 

如来の大悲が届いて、衆生、私の思いが破られる。

 

大悲が貫徹した時、如来と出遇う。大悲を拒絶し、

 

自分を拝んでいたのは、紛れもなく自分自身でした。

 

本願念佛とともに。南無阿弥陀佛。

 

仰せしかない

現実のわが身、わが身の生きるこの世界は、自分の思いを食い破っている。

 

こう聞かせて頂くけれど、本当に自分の思い通りにいかないこと、

 

自分が破られることを、絶対的に否定している。受け入れられない。

 

絶対に破られたくない。自分が間違いなく、正しいんや。

 

自分の願いは努力すれば必ず成就するんや。

 

しかし、因縁が和合しなければ結果は出ない。

 

それをどうしても認めることができない。

 

それはそのまま自分を否定することになるから。決して凡夫になりたくない。

 

心底忌避している。絶対に認めたくない。

 

それでも、現実は波のように押しかけてきて、自分の思いを全く無視して、

時が流れていく。

 

お念佛したら、苦悩がなくなるのですか?どういう効能があるのですか?

 

そんなものは知らない。ただ念佛しているだけで、それ以上のことでも、

 

それ以下のことでもない。称我名号の仰せに随っているだけ。

 

そして、嫌で仕方がない、犯してしまった過去、逃れられない現実に

直面すると、何もかも間に合わんのです。

 

もう、仰せしかない。仰せがかかっている、そのことだけが憑みで、

それに支えられて、堪えるしかできない。

 

刹那の生死を繰り返して、一期の生死を迎える(和田先生)

 

一期の生死を迎えるまで、この肉体、この心から一歩も出ることが

できない。

 

無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、

はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、

臨終の一念にいたるまでとどまらずきえずたえずと

水火二河の譬(たとえ)にあらわれたり(親鸞聖人 一念多念文意)

 

でも、もう少しだ。これで最後だ。だから、よろよろでも、

ぼろぼろになっても、たとえ念佛さえできなくなったとしても、

仰せ一つに生き、仰せ一つに死ぬ。それしか灯がないのだから。

 

念佛が聞こえないのは、まだ余裕がある。その余裕を自力を憑むという。

そのひとを善人という。

 

自力は捨てられない。廃る。仰せが届いて初めて廃る。

 

念佛のいわれ、大悲のこころを聞くしかない。念佛申さんと思い立つ

心のおこるまで聞くしかない。もうどうにもならない、宿業・現実に

押しつぶされる人を悪人という。悪人正機とは、このことである。

本願の目当ては悪人である。

 

本願とともに。南無阿弥陀佛。