むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

聞かせて頂いたこと、そして思うこと

人はよいと思うことしかしない。

 

地獄とは、堕ちるものではなくて、人間ははじめから既に地獄に堕ちている。

地獄に堕ちているとは、地獄をはらんでいるというか、具足というか、

それから逃れられないということ。

それが各々の縁にもよおされて露わになる。その地獄とは、孤独である。

ただし、孤独を苦悩と感じ難い。各々は色々な関係を持って生きているゆえに。

 

ただ生きる→よりよく生きるの答えではなくて、

なぜ今、にんげんとして、此処に存在しているのか?

 

生きること、存在することが否定される状態に陥ったとき、

それに応えうるのが、浄土真宗である。

 

それは、久遠の過去、現在、悠久の未来のどの時代、どの人をもえらばず、

へだてず、一切を貫くものである。

聞いてもどうにもらない。でも聞かねばならない。

それが自分にとっての真宗

 

不安は、どこかにあるのではなく、自分が生みだすもの。

 それは、どうしたらいいんや、どっちがいいんやという計らいの心。

そういう自分を拝み、佛を足蹴にする。それが佛智疑惑の罪。

自分には佛を信じる心も、憑む心もない。ただ称えよの仰せをただ聞くばかり。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

 

如来選択の道

法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と

候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうえに(ご消息十六通真宗聖典p771)

 

愚者とは、自分で道を歩めない者すなわち自分のこと。

 

その愚者は、自分自身の願いや望みさえわからず、生を貪るような

ことしかできない者。

 

その者には、もう道がどこにもない。もともと道などなかったのだが

そのことを知らなかった。歩むべき道があると思っていた。

今も思っているのかもしれない。

 

しかし、この者に対して、念佛往生の誓願がまします。

だから捨てない、見捨てられないの如来まします。

 

そして、如来選択のただ念佛の大道が今ここにまします。

 

愚者のために建立された念佛往生、本願の名号。

 

この大道を静かに往く。愚者になり続けて。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

17.10.18追記

 

愚者になり続けて、とは、照らし出だされ続けるという意味である。

 

邪見驕慢放逸は仏法の仇である。このままだと放逸することではない。

 

光に照らし出されれば、恥ずかしい、まことに力のない、情けない、

 

自身が見える。そこに慙愧、悲歎が起こる。

 

その慙愧と悲歎を凝視するところに、すでに如来のおはたらきに

 

包まれているではないか。これが本当に安心した相じゃぞよと

 

藤谷先生から聞かせて頂いた。仏法のおはたらきには底がないのである。

ただ称えよの仰せ

依るべきものがなく、できることもなく、わかることがひとつもない。

とても悲しいことだと思うが、これが自分の実相

何か分かるとかではなくて、本当に一切何も分からない。どうすればいいのか

わからない。何をすべきかも、何を望んでいるのかもわからない。

 

ただ、この者にめがけて、乃至十念若不生者不取正覚の仰せがある。

 

だから、自分には、もうこの仰せを聞くしか何もできない、というか、

何をしたらいいのか、本当にわからない。仰せを聞いて、応える。

ただくちになむあみだぶつと念佛を申す。それだけしかない。

 

煩悩具足の凡夫火宅無常の世界はよろづのことみなもってそらごとたわごと

まことあることなきにただ念佛のみぞまことにておはします(歎異抄

 

悲しい、という感情は、どういうものなのだろうと最近思う。

 

ただ、自分がどう思うとか、どう頂くとか、分かるようになったとか、

すべてそらごとで、ただ念佛してくれの仰せだけが灯明である。

 

あぁ、本当に何もわからない。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

追伸 

 

罪悪甚重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。

 

だから捨てない、捨てれないのだと仰る。ここに大悲本願、

 

摂取不捨の仰せがある。だから、生きていける。存在できる。

 

そして、これは許されているということだ。

 

十方衆生は、阿弥陀佛に許されている。見出されている。

抱かれている。みそなわれている。愛されている。

 

南無阿弥陀佛は変わらない。大事な師の言葉です。