むなしさとともに

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本願海に融けていく

煩悩の雨がいくらふっても

 

本願海に融けていく

 

海は雨雪を受け止める

 

大地は風雪を受け止める

 

本願とは海であり大地である

 

我を育む大地である、衆生を平等に育む海である

 

大地と海は摂取不捨の心をあらわす

 

波はさらい続ける 思いをさらい続ける

 

大地はどこまでも受け止め続ける

 

さらわれ、うけとめられたあとに残るのは

如来のお心のみ、お慈悲に慰められ今日も念佛を聞く。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

煩悩は煩悩のままでよい

出よう、出よう、やめよう、やめようとしていたが、

どうやらそうではないらしい。

 

煩悩は煩悩のままでよい。断ぜずともよい。

 

要は執着しなければ、相手にしなければ問題ない。

 

湧くなら湧けばいい。思うなら思えばいい。

 

あぁ、また思っているな。なんまんだぶ。

 

あぁ、うれしやな。なんまんだぶ。

 

あぁ、どうしてこうなのか。なんまんだぶ。

 

諦かに見るというのは、止まらないものは止まらないと見、

常ならぬものを常ならぬと見ることだと思う。

止まぬものを止むものと認識し、常ならぬものを常と思う、これを

邪見驕慢という。

 

 

これで事足りる。出よう出ようと、離れよう離れようとしていたが、

離れずとも結構。今この身このままで、いくらでも離れることができる。

感動の涙でさえ仮であるということは、本当に寂しいけれど、

寂しいという思いも仮である。思いは思いのままに、ただ念佛を聞く。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

後述

 

結構とは書きながら、現実のわたしは、思いに囚われっぱなし。

それでも念佛申せば、帰るべき場所に何度でも帰る。

全休様は、それを平常心というと教えてくださっている。

何度でも、何度でもはありがたい。

 

受容

浄土真宗、本願念佛の教えとは、どういうことだろう、と

考えています。

 

私は、本願とは受容であると思います。

 

受容とは、じゅゆうと仏教では読むと聞かせて頂きます。

 

受容とは、受け止めることだと思います。

 

受け止めるとは、他者を、世界を、そして自分を一切を受け止める、

引き受けることだと思います。逃げない。不都合な現実であっても、

わたしが生きるべき現実、自分自身を奪い返すこと、

これを和田先生は救いであると仰っていた。救いとは、受容だと思う。

 

しかし、どうしても私には他者を、世界を、あげく自分さえも

受け止める力がない。全く無能力である。

 

だから如来は仰る。汝を決して捨てぬ、と。共におると。常に説法したいと。

 

常於大衆中 説法師子吼(重誓偈)

 

 

決して捨てぬとは、摂取不捨の心、

我が為にまことの言葉にまことを重ねて誓う心、これを大悲と頂く。

 

ただ大悲を仰ぎ、ただ念佛を聞く。わたしの思い、わたしの行動、一切、

往生の邪魔にも助けにもならない。無関係。蚊帳の外。

 

往生はご本願が決する。わたしはただ大悲を仰ぐ。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

一皮むけばみな骸骨。今命ある人も、150年後は一人残らず誰もいない。

骸骨が他の骸骨をよいとかわるいとかいう。

そういうことは、本当にどうでもいい。

世の中は平等だと思う。無常である故に。