むなしさとともに

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修道、聞思、知進守退 追記あり

安田理深先生の本にご縁があった。

 

師の講義録に、このような意味のことが書いてあった。

 

見惑は強いが、断たれる時は一瞬である。

 

修惑は弱いが、続いていく。そして我執の奥に法執がある。

 

蓮の花の茎は、ポキっと折れるが、筋はなかなか切れない、ことに喩えておられた。

 

今の自分の問題は、この修惑の問題である。そして法執である。

 

そして、このようにも書いてあった。

 

見道を繰り返す、反復する。これが修道である、と。

 

往生とは修行である。曽我量深先生の本に書いてあった。

 

心だけを重んじてもダメ。身だけを重んじてもダメ。

身を通じて、心を練る。さしおかずに、そのまま凝視する。そして因を尋ねる。

自分の言葉で表現するならば、こう云える。

 

信の一念を何度も反復し、信を純化する。

信の純化と柔軟心の成就。これは藤谷秀道先生の言葉。

 

聞思、知進守退という言葉の響き、これは親鸞聖人の言葉。

 

言葉の響きは同じ、すべてを貫いているものがある。しかし、

今はまだその答えはわからない。それをどこまでも、深め、

どこまでも尋ねていきたい。これを教えて下さる方が本当に少ない。

 

学者や信者は居ても、行者がほとんどいない。これが原因だと思う。

 

行者とは臨終の一念まで、修惑と向き合っていく者だと思う。

そして、念佛を申し、大悲を仰ぐ者である。

 

暫く、更新のペースを落として、この問題に向き合っていこうと

思います。言葉を練っていこうと思います。

 

憑むべきは法性のまこと。依るべきは念佛一行。

これは決して変わりませぬ。

 

弥陀如来の前に、法性法身がある。

それを『法性のまこと』と藤谷先生は仰いました。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

 

 2020.02.10追記


このような記事を見て下さる方が


ましますこと、有り難く存じます。


恐らく、道は着いたけれど、これから、


何をすればいいのか、戸惑いを持つ方が


見て下さるのでは、と感じます。


結論は、やはり、僕らはこの身が終わる


まで、凡夫であるぞ、との親鸞聖人の


仰せを繰り返し聞くことだと思います。


信心決定したとしても、今、ここに居る


自分にはまだ、迷いの身が現存している


でしょう。僕もそう。決して迷いの身か


ら離れることができない。


しかし、それは、自分だけではなくて、


皆が抱える問題であったのか、という、


更なる転換があります。


藤谷秀道先生が、七地沈空の難と


言い表されたことは、ここの転換の前に


停滞があることを仰ったのではと


感じます。


空を悟ると菩薩は、前にも後ろにも


進めなくなるそうです。


しかし、この人は見失っているのであり


ます。衆生のことを。


ここは、専ら善知識の教えを聞くこと、


念佛を保ちつつ、現実に仏法を尋ねる


こと、これを繰り返してようやく、


あぁ、まことの大悲であったかと


更に落ち着く世界がある、そういう


気が致します。


そして、もはや、心境にも、体験にも


すがる必要もなく、今、ここに存在する


助からない自分に、南無阿弥陀佛と


大悲の仰せがかかっており、念佛聞かし


められるばかりで十分なのであります。


さぁ、共に尋ねてまいりましょう。


南無不可思議光如来




たすけてといえばいい

無縁社会という本を読んだ。

孤独死。老病死。

 

人間には、どうしても超えられない一線がある。

 

ヤスパースは『限界状況』という言葉で表現している。

 

それに対峙したとき、如何に自分が無力であったか、思い上がっていたか、

それらが初めて明らかになる。

 

経済的な格差。勝ち組、負け組。帰る場所がない。

受け止めてくれるものがどこにもない。誰も居ない。

 

どうにもならないなら、たすけてくれといえばいい。

 

一心に弥陀をたのむこともできない身であれば、ただ彼の名を

称えばいい。無量寿佛の御名を称えよ。

 

如来の仰せはただ一つ。我が名を称えるばかりで、たすける。

 

必ず浄土へ往生させる。往生とは始まりと遂げられるときがある。

 

称我名号 下至十声の大悲をそのままいただけばいい。

 

本願とともに。南無阿弥陀

度衆生心(仲良くしたいと思う心)

お経を読んでいます。

 

浄土三部経ではありません。雑行だと言われるかもしれませんが、

 

別に構いません。そういうことを気にする必要はもうありません。そのままです。

 

そのお経に嫌と云うほど出てくるのが『衆生のために』という言葉。

 

三帰依文でも出てくる。『もろもろの衆生とともに』

 

自分はある意味、今生では諦めていることがあります。

 

決して他人とわかりあうことはできない、と。

自分の思いから一歩も出ることができないから、分かり合ったり、

受け止めたりすることが、どうしてもできない、と。

自分さえ良かったら、それでいい、と。

 

でも一方でこうも思います。

 

今のこの心は間違っているな。独りよがりではいけないよな。

誰かの役に立ちたい。本当にお互いを尊重し、理解しあいたい。

 

簡単にいえば、みんなと仲良くしたい、ということのように思います。

 

今まで、自分は煩悩を無視してきました。さしおいて、そのまま念佛を申す、と。

 

どうも違います。

 

煩悩を無視するということは、己を無視することのように思います。

 

だから、煩悩を直視して、ただ念佛を申す。

煩悩があるまま、起こるまま、ただ念佛を申す。

 

これが本当に煩悩を超えるということのように思います。

 

無視ではなく、受け止める。その心を変えることなく、

さしおくことなく、そのままの心で、ただ念佛を申す。

佛名を聞く。

 

煩悩も衆生かもしれません。

目の前の人は、過去世で兄弟だったかもしれません。

目の前の魚は、未来世で親かもしれません。

 

懐かしいなと思うのです。とてもとても。

うーん、一体どんな縁があったのだろうなと。電車で隣に座る人、

たとえ一言も声を掛けない人であっても、まして毎日顔を合わす人は況やです。

 

衆生心とは、本当にこの人を受け止めてあげられない、と云う心でも

あるし、何とかして力になりたい、と思う心でもあると思います。

 

非力な自分ではありますが、有縁の方とともに、念佛往生の心を

どこまでも尋ねていきたいと思うのです。

 

本願とともに。南無阿弥陀