むなしさとともに

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他の方便さらになし

極悪深重の衆生

他の方便さらになし

ひとへに弥陀を称じてぞ

浄土にむまるとのべたまふ(高僧和讃 源信和尚)

(意訳)

極重の悪人である我々は、他の善行や他の仏菩薩の力で救われる

方法はさらにない。

ただ弥陀の名号を称えて、浄土に生まれることができると仰せられる。

 

ワイド岩波文庫 親鸞和讃集 P133

 

極重悪人とは、他の誰のことでもない、わたしいちにんである。

そして、わたしはもはや、一切の方便手立ての尽き果てたものであり、

決して生死流転と呼ばれる存在のありようから抜けることができない者である。

 

しかし、如来は仰る。わが名を称えよ。汝念佛申せ。そんなものは承知だ。

用事がない。一切は弥陀が引き受ける、と。わが本願力は無窮なり。

 

極重悪人唯称仏の仰せにただ従うだけ。

それがただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしのよきひとの仰せである。

他に用事なし。ただ念佛を聞く。

 

嬉しいとか悲しいとか、罪悪感とか無常観とか、用事がない。ただ念佛を聞け。

その一声の念佛が如来の大悲である。そのまま聞くばかり。聞くことが

そのまま、即、如来の仰せに従うことである。

 

南無阿弥陀

一対一の関係

如来と自分は直の関係であり、

他の一切が介在する余地がない。すきまがない。

 

念佛が如来に帰す。一声の念佛が戻す。

 

かたちなき本願力が言葉になってはたらいてくださる。

 

他力とは如来の本願力なり、のお言葉を思う。

 

憶念とは、自分が如来を思うのではない。

如来が思い詰めで、心を砕いてくださっていること、それが

憶念である。如来がまことであって、自分はまことではない。

それでよいのである。如来に往生浄土の確信があれば、それで

よくて、凡夫の自分の確信など全くあてにならない。

たのむべきは本願の心。必ず助ける、弥陀の呼び声。

 

南無阿弥陀

選択

決断をする時は、複数の中から「ひとつ」をえらんでいる。

 

選択とは、取捨選択。

 

数え切れない選択肢の中から、如来の智慧、大悲を込めて取捨選択した行、

 

どうにもならないわたしの為に、ただひとつを選び取ってくださり、

 

自身が念佛と成り、行とまで成ってくださった。これが選択本願念佛。

 

念佛のほかに本願はないし、本願が念佛の一声とまでなっている。

 

本願召喚の勅命と仰る。今、耳に聞こえるままが「必ず助ける」の仰せ。

 

仰せに従い、ただ念佛を申す。これが如来如実の言に信順すること。

 

専修念佛の一行。これ一つでいいし、これだけでよい。これだけである。

 

他になにもいらない。最低限あれば、それだけで十分。他は贅沢である。

 

摂取不捨の真言が南無阿弥陀佛である。

自分は無知、如来は一切智、無分別智。如来に全て託す。

そのまま救うが弥陀の呼び声、大悲本願如来智慧愛無限平等大地なり。

 

南無阿弥陀