もろもろの衆生を視そなわすこと、自己のごとし(仏説無量寿経)
自分と衆生、わたしを分けずに自身として、
私の上に必ず本願を成就しようと大悲を起こされ、
敢えて言葉に成り下がり、南無阿弥陀佛の声にまで
成って下さったご親切。
それを南無阿弥陀佛のいわれという。
南無阿弥陀佛のいわれを聞く。わが名を称えよという
如来との出遇いはそのまま自己との出遇いとなる。
自己とは出遇うもの、出遇い続けるものである。
南無阿弥陀佛
絶望を光に転じる出遇いだった。
念佛との出遇いから、もうすぐ丸二年である。
もしも救われるということがあるのであれば、
自分一人ではなく、一切のともがらが、ともに浄土へ
往生することであろう。信心は所有物ではなく、
身につくものであると金子先生の本願の宗教というご本にあったが、
信は終着点ではなく、出発点である。
自己満足で完結するようなものではない故に、
還相廻向させると本願に誓われているのだろう。
香樹院語録という本に、生涯のうちたった一人でも
念佛者を産んだならば十方諸佛がお喜びであり、
親鸞聖人にも面目が立つぞという趣旨の教えがあった。
今生では如来の役に立つことはできまいが、
往生を遂げさせて頂いたならば、親兄弟親戚ペット、
すれ違った人、隣に座った人、一切有縁を浄土へ
導くことができるはずだ。
たった一言言葉を交わすことさえ、無駄にはしない。
如来の大悲を思う。
これからも辛く悲しいことが沢山湧いてくるだろう。
でもこれで最期。苦しみを引き受ける力を念佛といい、
如来ともにましますという。
まことの自由を浄土往生という。
念佛往生は自然に浄土往生遂げていく。
南無阿弥陀佛