むなしさとともに

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有縁の知識

私が現在ご縁のある先生方については、事前に相談等も必要だと

 

思いますし、その人の信仰の状況にも関わることなので、

 

このような場では申し上げるつもりはありません。

 

しかし既に往生された先生方ならば、お伝えできると思います。

 

二人おられます。

 

藤谷秀道先生と和田稠先生です。

 

お二人ともにご著書もあります。

 

和田先生は『常没の凡愚』というCDも市販されております。

 

本当に深刻に自分が苦しんでいるのかどうか。

 

また一体何に苦しんでいるのか?

 

最も大事なことは、如来はわたしに何を仰っているかを聞くこと、

 

これだけであります。

 

南無阿弥陀

 

追記:自分の先生です、というものの、実際にお会いしたことは

   ありません。しかし、先生方の言葉は肺腑に沁みるのであります。

   仏語は解釈するものではなくて、響くものであります。

   念佛は称えるものではなくて、専ら聞かせて頂くものであります。

   口で称えれば耳に聞こえる。それは称えさせ、聞かしめたい、という

   大悲のもよおしがあればこそ、一声の念佛が出てくださるのであります。

   自分には、念佛を申す心など微塵もないのです。

 

 

願力無窮

無明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな

生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ

 

願力無窮にましませば 罪業甚深もおもからず

佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず(正像末和讃

 

自分の心と我が身を相手にしない。そこからは妄念妄想以外に生まれてこない。

 

仏語、よき人の仰せ、本願の名号より信が生ず。

 

我が心より決して信は生まれず。

 

法蔵願力が無窮であり、果たし遂げずばおかぬとの御心。

 

願力がかけられた我ら、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよとの仰せ。

 

念佛往生は如来の悲願。必ず果たし遂げるとの仰せ。覚悟。

 

信は他力の信心、自分の信ではない。

 

南無阿弥陀

 

 170920追記 こちらに、よくアクセス頂いているようなので、

 今、自分が頂いていることを記します。

 

 信とは如来の仰せにそのまま委ねていることであり、

 それが特別なことであるとは思いません。

 

 ただし、自力といわれる 自分の心、身を憑みとし、

 自分の思うとおりにことが運ぶに違いないという邪見は

 我々の自性であり、拭い去ることはできません。というより、それ自体が

 自分であります。縁起を無視する故に苦しむように思います。

 

 故に地獄一定、しかし、それを必ず助けずばおかないという

 如来の本願まします。よって、いかに罪業は甚深であるとも、本願念佛、

 無限大悲には底がない、ここが肝要であります。

 この一点をひたすら聞くのであります。

 

 不退は如来であり、私はいついかなる時でも退転し続ける。

 如来に確信があれば、私はいくら迷っても支障ない、ということであります。

 でも、本当はね、煩悩も全く知らないのであります。

 自分の思う心の動きを煩悩とよぶだけで、それが本当に煩悩かどうか、

 自分には全く分からないのであります。これを愚者と仰るのでしょう。 

 

 如来蔵は清浄であるが、煩悩に染まることがある。これは如来のみが

  正しく知見する境界であって、二乗、菩薩の量り知るところではない、

 これが聖徳太子の教えであります。

聞思

しばらく疑問を至してついに明証を出だす(顕浄土真実教行証文類 信巻)

 

親鸞聖人の聞思の姿勢を感じる。

 

言葉を掘り下げる、文章は行間を読む、仏法に体当たりをする。

 

専ら念佛を聞く。

 

僕には、時々このようなことに浸る時節があるようです。

 

止観、観察の態度。実相を凝視する。

 

また暫くペースが落ちると思います。全休様が取り上げてくださる、

 

香樹院語録あるいは他の念佛者の語録、あるいは、お聖教に浸ろうと思っています。

 

そして、実生活を縁として、仏の心を尋ねてみたいと思います。

 

言葉に表すというより、言葉から心を見出す作業というか、うまく

言葉になりませんが。ではまた。

 

南無阿弥陀