むなしさとともに

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無蓋の大悲

大悲を思う。

よくぞこのような世界に如来が人の姿をとって現れて下さったものだ。

本当にご苦労下さったと思う。

 

そしてその説いて下さったお言葉が、今日、仏縁のない自分にまで

ついに至り届いて、お念佛を申す身にまで仕上げて下さったことに

深く深く感謝致します。

 

われらの浄土往生のために、真実の利、すなわち本願名号の大悲を

今ここに、そしてこれからもずっと説いてくださることに

深く感謝致します。

 

すでに願力のはたらく世界に居らしめられているということを

華厳経の教えから頂き、感動したのでここに綴りました。

 

南無阿弥陀

諦かに見る(現実を凝視する)

他の方はともかく、自分については、救いとは無縁である。

 

どうしても自己中心性を離れることができない。傷つけ、裏切ることしか

 

できない。嘘と偽りだらけである。

 

わが身わが心を諦かに見る。救いはどこにもない。どうにもならない。

 

そこに、一つのよびかけがある。

 

汝の業障の身、煩悩成就の心に一切何も期待しないし、要求はしない。

我が名を称えよ。我が願力にて、必ず汝を我が浄土へ往生させる。

 

口称の本願。本願に相応する故に、何度でも如来の一念に

 

引き戻す。往生には始まりの一念があり、遂げられる一念がある。

 

信の一念、臨終の一念。

 

救いはどこにもない。どうにもならない。どうにもならないことは

どうにもならないと見る。これを如来の如実知見というのだと思う。

そして、これが智慧である。

 

無量の勝方便は実相を思うに従って得。

一切の業障海は皆妄想より生ず。若し懺悔せんと欲せば端坐して

実相を思え(仏説観普賢菩薩行法経

 

実相とは如実知見である。

 

南無阿弥陀

すべて知っているよ

光明は智慧なりと親鸞聖人は仰った。

 

この言葉を味わうに、智慧とは、全てを見通す力、神通力のように

 

思っていたが、そうではないと思う。

 

人の痛み、悲しみ、苦しみを感じられるのは、

 

その人が身をもって、それらを味わったからこそ、

 

それらを何とかしてやりたいという心が起こるのであって、

 

如来や菩薩は、自分の身を通して、それらの苦渋を嘗め尽くしているから

 

こそ、衆生に対して、慈悲、つまり苦を抜かずんばおかない、必ず助ける、

 

という大悲を起こすのである。

 

そして、なぜそれらを嘗め尽くしているか、あるいは、わが苦しみ、

 

わが痛み、わが悲しみを知っているか、というと、

 

ずっとそばにいるから、ずっとみそなわしてきたから、である。

 

このことを寿命無量という。

 

寿命無量であるが故に光明無量である。

 

ずっとそばにいるよ。これが寿命無量のこころ。

 

決して見捨てない、すべてを知っている。知っているからこそ、

どんなことをしても、我が汝を助ける、というのが光明無量の心。

 

寿命無量であるが故に、光明無量であり、

光明無量であるが故に、寿命無量である。

 

二つは一つ、一つは二つ。不一不二の大悲。

 

いろもなくかたちもましまさずの無上佛が、あえて形をとって、

言葉になり、わたしの声にまでなって、わが身、わが心に響く。

 

それを一声の念佛という。一声の念佛が如来自身であり、大悲である。

 

この一声の響きを聞く。響けば疑うとか助かるとか、そんなものどうでも

 

よくて、ただなむあみだぶつと佛の御名を申すだけで事足りる。

 

かるとか助からんとか、そんなものしらない。如来にまかす、

 

それだけで十分。確信は一つでいい。自分の確信はいらない。

 

まかせたあとは文句はいわない。いいようにしてくださればいい。

 

 

南無阿弥陀