光明は智慧なりと親鸞聖人は仰った。
この言葉を味わうに、智慧とは、全てを見通す力、神通力のように
思っていたが、そうではないと思う。
人の痛み、悲しみ、苦しみを感じられるのは、
その人が身をもって、それらを味わったからこそ、
それらを何とかしてやりたいという心が起こるのであって、
如来や菩薩は、自分の身を通して、それらの苦渋を嘗め尽くしているから
こそ、衆生に対して、慈悲、つまり苦を抜かずんばおかない、必ず助ける、
という大悲を起こすのである。
そして、なぜそれらを嘗め尽くしているか、あるいは、わが苦しみ、
わが痛み、わが悲しみを知っているか、というと、
ずっとそばにいるから、ずっとみそなわしてきたから、である。
このことを寿命無量という。
寿命無量であるが故に光明無量である。
ずっとそばにいるよ。これが寿命無量のこころ。
決して見捨てない、すべてを知っている。知っているからこそ、
どんなことをしても、我が汝を助ける、というのが光明無量の心。
寿命無量であるが故に、光明無量であり、
光明無量であるが故に、寿命無量である。
二つは一つ、一つは二つ。不一不二の大悲。
いろもなくかたちもましまさずの無上佛が、あえて形をとって、
言葉になり、わたしの声にまでなって、わが身、わが心に響く。
それを一声の念佛という。一声の念佛が如来自身であり、大悲である。
この一声の響きを聞く。響けば疑うとか助かるとか、そんなものどうでも
よくて、ただなむあみだぶつと佛の御名を申すだけで事足りる。
助かるとか助からんとか、そんなものしらない。如来にまかす、
それだけで十分。確信は一つでいい。自分の確信はいらない。
まかせたあとは文句はいわない。いいようにしてくださればいい。
南無阿弥陀佛