むなしさとともに

徒然なるままに、真宗の味わいを書いていきたいと思います。不快な方は、予めご遠慮ください。

大切なことは何か

本当に大切なことは何だろうか?

 

そんなことを思う。しかし、日常は常に自分のものさしに

 

流され、気がついたら、身が動いているということもあるし、

 

殺生を幾らやめよ、と仰られても、それを止める力がありません。

 

残念ながら、自分は人の身を生きているからです。

 

しかし、そういうことも今はもはや無用。

 

専ら我をたのめ、と仰る如来にまかせるのみ。

 

結果は知らない。

 

本当に大切なことは仏縁だと思う。それがすべてであり、

 

それがなければ、本当に生きている意味が削がれてしまう。

 

仏縁とは何か?具体的には一声の念佛。

 

一声の念佛から法性法身を頂く。

 

法性法身から方便法身、すなわち弥陀如来、南無阿弥陀佛、

 

声の如来に帰る。

 

それだけが常住であると教えて頂く。

 

よきひとの仰せを専ら聞く。よきひととは如来である。

 

残念ながら、もはや凡夫の言葉や思いに用はない。

 

それらがいくら痛みを加えても、弥陀に託す。それだけが唯一の道。

 

それだけでいいし、それしかない。もう道がない。

 

でもこの道は佛からの道。念佛の道。如来からの道。

 

如来からの道がこの一声の念佛。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

 

夜道のセミ

夜道を歩く。

 

影が動く。あっ、セミだ。

 

土から出てきて、もぞもぞしている。そこは歩行路。

 

踏み潰されてるのを見るのがいやだ、手を伸ばすともぞもぞ上ってくる。

 

少し腕をよじ上る。殻に成虫の兆しが透けている。

 

このセミは何歳だろうか?

 

木に置くと、ゆっくり上っていった。

 

今頃、彼は無事鳴いているだろうか?彼もいのち、自分もいのち。

 

おぉいのちのともがらよ。そのともがらをもてあそぶ事しかできぬ自分よ。

 

自分の思いから一歩も出ることができない。本当に浅ましいけれども、

 

このありようをやめることができない。沈みきっている。

 

ただし、ともに見捨てぬ大悲まします。無量寿如来と申します。

 

われをたのめとよびたもうなり。

いつまでも、どこまでも

いつでも、どこでもと思っていたが違っていた。

(170719追記 違うというのは、その意味だけではなかったということ。

 つまり、いつまでも、どこまでもに包含された、いつでも、どこでもで

 あるということ)

 

如来の大悲は、いつまでも、どこまでも。

 

必ず助ける、助け遂げずんば誓うて正覚を取らじ。

 

我が名を称えよ。

 

これが如来の大悲。

 

一隅を照らすと思っていたが、一隅をも照らす。照らし抜く。

 

貫く。貫き徹す。

 

その心は遍く十方を照らす。光明蒙らぬものぞなし、の親鸞聖人のお心。

 

如来の大悲が至り届いて、この我が声にまで成って下さったとは、

 

今の今まで知らなんだ。おぉ如来よ。おぉ無限の大悲よ。

 

南無阿弥陀

聖徳太子

親鸞聖人がどうして聖徳太子を讃嘆されたかわからなかった。

 

夢のお告げだけとは思えなかった。

 

太子の著作を初めて読んで驚いた。

 

太子は佛のお心が分かっておられた方とは知らなかった。

 

希有の心を生ずとは、常住を聞くを謂うなり。

通じて論ずることを為さば、常住は本然なり。但是を聞くこと希なるが故に

希有と云う(勝鬘経義疏 其中堂p10)

 

真の意味で親鸞聖人が教えを請うことができる人は法然聖人しか

 

いなかったが、法然聖人とは流刑以後お会いすることが

 

できず、親鸞聖人が苦しくて再び道に行き詰まった時、

 

おそらく太子の著作を拝読して道がもう一度開かれたのだと思う。

単に夢告だけではない。

 

本当に佛法が浸透した方でなければこんな本を書き残すことは

 

できないと感じた。

 

しばらく聖徳太子の本や華厳経や十地経に触れて、如来のお心を

 

尋ねてみます。

 

なんまんだぶ

ねんぶつのうた

最近は、法話の場に行っても、話の内容や言葉を覚えようという気持ちが

 

なくなってしまい、ただ有縁の先生のお顔を見に行っているような、

 

そんな感覚でおります。

 

お念佛もおろそかで、日常はあれやこれやで毎日が過ぎております。

 

いくら自分が忘れても、如来様は忘れてくださらん。

 

これだけで十分な気がいたします。

 

十牛図という禅宗のお話は聞いたことがありますか?

 

このお話の最後は、山を降りて、いろんな人と交わって、お酒を呑んだり、

 

ご飯を食べたり、子どもと遊んだり、というもので終わります。

 

このお心がほのかに感じられます。

 

華厳経の本を読ませて頂いたり、お念佛に親しませて頂き、

 

本来の佛法を聞く前の自分に還っていっているような気がします。

 

信の一念に確かに歓びが起こりましたが、咲いた花は散らねばならぬ。

 

散った後には種が残る。その種が憶念の心。憶念の心は決して休まずに、

 

常に覚めている心だ、と藤谷秀道先生は教えて下さいました。

 

 

いまはただ よろこびも どこへやら ただなむあみだぶつ なむあみだぶつ

 

よろこびはよろこびで おもいではおもいで ただうつしよのいまをいきる

 

ぼんぶはひとりじゃないよ みんなもろとも ひかりをあおぐ

 

大悲無捲常照我身 われをたのめとよびたもうなり 

 

たのしみも かなしみも みなもろともに 大悲にとけていく