むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

最初から憑みにしない

ひとは、業縁存在である。

どんなに素晴らしいひとであっても、

どんなに仕方のないひとであっても、固定的な存在ではない。

 

因は無量永劫の生をもって、具足している。

 

縁は選ぶことはできない。このことを煩悩成就、緊縛と仰られるのではと思う。

 

思い通りにはいかない。思い通りにいかないことを『苦』とおっしゃる。

 

自分も他の方も所詮はひとである。ひとである以上は、有限である。

 

有限ということは、一切に限りがある、分限があるということ。

 

分限とは超えられない一線がある、ということ。ヤスパースのいう限界状況。

 

思い通りに行かなくても、苦しいことがあっても、それはそういうところに

居るから、そうなるのであって、生まれることを選んで生まれてきた人は

佛菩薩以外にはおられないはずだ。

 

気がついたら、生まれていた。気がついたら、居た。

 

どのくらいこういうことを繰り返してきたのだろうと思う。

犬猫鳥を見ると懐かしい。憎めないものがある。

 

専ら如来の如実の言を聞く。

 

この一点。これがひとに生まれた所詮だと教わる。

 

これが抜けてしまったら、また

無量永劫の生死流転の旅に出かけるのだろう。

 

自らが選んで流転することと、流転していることさえ知らずに流転しているのは

別の次元のものである。

 

 前者は佛菩薩の流転、後者はわれらの流転。

 

南無阿弥陀

電車の中で

電車の中で隣に座った学生がプリントを持っていた。

 

初期仏教の何とかかんとか。

 

ちらりと見る。

『中道』の文字。

 

佛さんのお育てはすごいもんだなぁ。わらけてくる。

 

佛さんは「それ」になって語りかけてくる。自身は法身なので、

 あえて「それ」や「だれそれ」を通してはたらきかけてくる。

空だから握ることもできない。ただ仰ぐばかり。

 

如来のはたらきを感受する。気がつかなければ、ただの青年。

気がつけば、ともに御同行。

 

彼も如来の光明の中におり、自分もお育てに預かる。

 

いつか彼が念佛を申すことを念じて。

 

いつかあなたもとともに念佛を申すことを念じて。

 

南無阿弥陀

迷いに埋もれるままに如来の大地におった

毎日のひぐらしは因を作っているような気がしていたが、

 

実際は果である。

 

迷ってきた証は、この身である。人間として生まれてしまったことが

 

迷ってきた結果である。

 

一切が無明住地の因縁に依って起こり、それによって考え、

 

それによって、生きてきた、生きている。

 

故に迷いから決して離れることができない。

 

迷いから離れることができないものは、どうすればいいか。

 

迷いを迷いと知るのならば、それはすでに光の中にある。

 

繰り返し巻き返し、言葉を反芻している。

 

他の方は自分と違う世界の方なので、ある意味では、関係がない。

 

結局、自分の世界には自分ひとりしかいない。

 

誰とも分かり合うことができないし、誰のことも分かってあげれない。

 

孤独と不安とむなしさ。

 

これらは臨終の一念に至るまでなくならないと聞いている。

 

しかし、これらの思いがいかほどに深くても、助けるの仰せは

 

無限の大悲。無限があるから相対が存在できる。無限がなければ、

 

一切の土台はない。すでに如来の大地におるではないか。

 

すでにたすけるの仰せは届いているではないか。

 

ならば、そのたすけるの仰せを聞いていけばいい。

 

何も問題なかった。不完全なままが自分の完全。それでいいじゃないか。

 

ふそくこごともなにもかも にょらいの大悲にとけていく

 

こどくもふあんもむなしさも みんな大悲にとけていく

 

たすけるのおおせがなんどでもひびく 

 

たすけるのおおせがなむあみだぶつ こえのにょらいがなむあみだぶつ

 

なんどでもなんどでもいちねんにかえしていく かえるばしょがある

 

よんでくださるみこえとは いまのいままで しらなんだ