むなしさとともに

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助かるのではなくて助けられる

真宗の救いとは、自力無効である。

 

わが力及ばず。

あるいは、わが身、わが心の浅ましさを智慧によって知らされる。

 

煩悩がなくなるのではない。煩悩を滅することは今生では不可能である。

 

また苦しみ悲しみがなくなることはない。ここは娑婆だから。

堪忍の土と如来は仰っている。

 

憑む一念に浄土に往生したとはいえない。

 

諸々の衆生も無量無数にいる限り、助かることはない。

 

十方衆生の往生成佛とわたしの往生成佛はイコールである。

離れたものではない。不二である。

 

難思議往生を遂げんとおもう、と親鸞聖人は仰った。

 

不断煩悩得涅槃。煩悩を断ぜずして、涅槃を得る。

 

これは、入正定聚の意味もあろう。

わたしの行くべき方向が本願によって、正しく定められた。

大悲が私の存在全体を貫いたのである。心だけもなく、身だけでもない。

存在そのものである。

 

念佛の一念に久遠の響きがある。それは今もこだましている。

 

憑む一念と自力無効は同時即である。

 

今はただ、喜びもどこへやら、

如来が、わたしに、何と仰っているか?それを聞くばかりである。

それだけで十分なのである。如来は本当に親切である。

 

わたしは助かるのではなくて、助けられるのである。

助からぬまま助けられる。矛盾が矛盾のまま横超される。

何も問題がない。まかせよ、と仰る如来にただ打ちまかせるばかり。

 

南無阿弥陀

 

 

雇用

人間が憑みにしているものに、会社(組織)がある。

 

会社の役職、役割、仕事によって、生活が支えられている。

 

大企業、中小企業さまざまであるが、やはりその場によって、

 

支えられているといえる。

 

佛教とは如実知見、ありのままを観察する、智慧の教えである。

 

その観察に基づけば、会社は、自分の存在そのものを支える大地とは

 

成り得ない。

 

なぜなら諸行無常であり、縁起によって形が保たれているからである。

 

またその組織において果たすことができる職責は、自分の健康や能力という

 

身体に基づくはたらきに左右されている。

 

すなわち、身体のはたらきに支障が出た場合、その会社で、わたしを支えることが

 

できるというものには、必ず「範囲」がつく。

 

ここまでは、何とかできるが、これ以上は、できない。

 

「申し訳ない。あなたはもういらなくなってしまった」と言わざるを得なくなる。

 

だから、会社、ないし、組織に属する、というのは、

 

利害に基づく契約に過ぎないのである。

 

故に、それを拠り所にする人間は、その縁起が崩れたとき、苦しみを感じる。

 

対して、南無阿弥陀佛とは、寿命無量、光明無量を本とした無限大悲である。

 

無辺光。ほとりがない。えらばず、きらわず、へだてず。

 

根本的に我々の憑みにするものと次元を異とする。

 

畢竟依を帰命せよ、と親鸞聖人は和讃で仰った。

 

これはわれら衆生にとって、存在、生存の根本に関わる言葉である。

 

あなたは何によって、存在していますか?何に依っていますか?

 

会社に限らず、国家も会社もシステムに過ぎない。

佛教の智慧は、冷徹までに、現実を直視している。

 

われらは、この現実から逃げることはできない。

 

崩れるならば、崩れよ。

無常よ、われを滅ぼせども、如来より賜りたる信を滅ぼすこと能わず。

 

南無阿弥陀

孤独

人間は決定的に孤独である。

 

しかし、孤独を抱える者は決してひとりではない。

 

分かり合えねど、孤独を共に背負うものを友という。凡夫という。

 

おそらく今日を最後に、二度と会わぬ者に言えぬ言葉をつづる。

 

さようなら。

 

南無阿弥陀

 

心は必ず相をとる。相とは行である。言葉だけでは弱い。

常に言葉と一致した行が最上であろう。いつしか言葉が行そのものとなる。

そこには何者かが介在する余地が一切ない。それを空というのだろう。

人間にはそれがとても難しい。

ただし、徹底的に行ずる。たとえ相手が分からなくても構わない。行じ続ける。

誰かのためにやるのではない。自分自身の菩提のために行じ続ける。

いつか行が衆生の心を貫く。菩薩とは果てしなく行じ続けるものである。

 

いつかそういう菩薩になりたい。