むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

七地八地の水際

大切なことは、煩悩を離れることはできないということ。すなわち決して助からぬこと。

 

そして、煩悩具足、いしかわらつぶての如くなるわれらであること。

 

七地ではまだ躊躇がある。

 

八地にはもはや躊躇はない。ひたすら行ずる。

 

体当たりである。

 

七地までは自利が多くて利他が少ない。

 

八地以降の教化地は自利が少なく他利が多い。

 

自分が教化地ではない。信心がいよいよ浅ましい深淵を照らし見せつけて、

 

もう否定しようがないところまで照らされている。

 

これを利他教化地と表現するのである。

 

南無阿弥陀

共に苦悩の凡夫である

いしかわらつぶての如くなるわれら。

 

親鸞聖人の言葉はあたたかい。

 

このわれらという言葉の響き。そして、

 

凡夫という智慧の言葉。

 

共に苦悩の凡夫たるわれら、阿弥陀如来平等の大悲に摂取され共に往生遂げたし。

 

 

十年前、相田みつをさんのこの言葉も大事な方から教えて頂いた。

 

語らざれば憂いなきに似たり。語らざれば憂いなきに似たり。

 

南無阿弥陀

煩悩を憎まない

煩悩を憎み、叩きつぶそうとしていた。

 

阿弥陀如来智慧は煩悩を菩提に変えなしてくださる。

 

煩悩がなかったならば念仏申すこともなかっただろう。

 

むなしさがなかったならば、これでよいのだろうかと思うこともなかっただろう。

 

煩悩即菩提。生死即涅槃。如来智慧はかりなし。

 

今はただ念仏申すばかり。

 

明日は元同僚の命日。般若心経と阿弥陀経をお勤めさせて頂こうと思う。

 

南無阿弥陀