社会の問題に自分はどう関係するのか。
なぜこういうことが起きてしまうのか。
この結果に至るまでに、この人はどういう
日々を過ごし、誰に会い、
何を教わったのか。何がそうさせたのか。
本当の理由、それに至った経緯は他者には
おろか本人にも分からないのだろう。
痛ましいことが起こると決まって思い出す
お言葉がある。
さるべき業縁のもよおさば
いかなるふるまいをもすべし(歎異抄)
おそらく彼は(ひと)に出会うことなく、
空過してきた人であろう。
道を求めることなく、生存を憎み、
うっとおしい生存を誤魔化してきた。
結局、自分自身が(ひと)であるかどうか、
否、(ひと)になろうと足掻いているか、
本当に出遇うべきものに、今ここで、
出遇っているかに帰着する。
何時でも問われるのは他者でも社会でもなく
自分自身の存在の在り方であろうと思う。
信仰とは生きた血潮であり、
それに触れたのであれば浄土を求めざるを
得ないのである。ここは娑婆であり、
自身は凡夫である故に、悲しみが浄土を
希求させる。あきらめることなどできない。
たとえ砕けても構わない。
求めずにはおれない。なければならぬのが、
真実報土である。
南無阿弥陀佛