むなしさとともに

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十地の階梯②歓喜地 不活の畏れなし

参考 大乗仏典⑧十地経(荒牧典俊訳)中央文庫

歓喜地 p42 五種の不安の解消

(1)生活していけるかどうか

(2)名声にありつけなかったらどうしよう

(3)死んでしまったらどうしよう

(4)苦悩に満ちた存在に生まれるかもしれない

(5)説法会にあって、おどおどしたらどうしよう


(1)を考察する。


かの人は体験する。一切はたよりにならぬもので

あると。信じるより先に信じていたものが、

実はわが心に到達しないものであることを。


すべては本当に自分を救う力なきものたるを

痛切に感じるとき、まことの大悲に遭遇する。


大悲如来とそれ以外の違いが分かる。


まことがわかるとは、まことでないものが

わかること。


煩悩貪欲は燃え盛るが、燃えぬもの、侵されぬ

道がある。念佛の道。


もはや生活はなるようになればよし。


今、目の前にある、身の回りにあるもので充足

している。何度煩悩が起きようとも、

戻れる場所と時がある。業報は嫌だが、

受けねばならぬ。この生存が最期。悪報も

頂戴致す。何度でも念佛に立ち帰る。


故に生活におそれなしという。


南無阿弥陀

十地の階梯①何の意味があるのだろうか

参考 大乗仏典⑧十地経(荒牧典俊訳)中央文庫


十地経は菩薩の階梯を十で表して下さったお経で

あります。浄土真宗では、浄土三部経が中心な

ため、あまり縁がないかもしれませんが、

非常に大切なことが示唆されたものだと

感じます。親鸞聖人の顕浄土真実教行証文類

即ち教行信証の中にも引用されています。


ここに書かれたことは何か?何を表したかった

のだろうか?

今、体解致しますところは、

原点および反復の重要性、この一点であります。

このお経は、歓喜地から始まる。

少し掘り下げて考えてみたいと思います。

歓喜地は始まりであり、原点である。

この原点が大切なことだとしきりに思うので

あります。何度でも原点に立ち帰る。その中で

言い切れぬ深まりがある、如来が不退転である

ことがいよいよ明らかになる。一方、自らは

全くの凡夫であり、本当に迷いから離れることが

できないと暴露される。


だからこそ、わが名を称えよのこの一句が

本当に有り難い。

南無阿弥陀

何が燃え続けているのだろうか

夢を見た。

炎が燃えている。

この炎は自分が点けてしまったのか、

他者が蒔いたものなのか分からない。

忽然と点いたものである。


何が燃えているのか分からない。ただ、

燃えているそのものは自分が拵えてきた

ものに違いない。ひどく黒ずんでおり、もうすでに焼け焦がれ、爛れているような、

そういうものに見える。

映像としては、ごみの山に近いのだが、何かはわからない。


一生懸命に何度も何度も消そうとした。が、全く消えない。

炎自体が問題ではなく、すでに自分の中に莫大な可燃物がある。

無始以来、自分が拵えてきたもの、今も拵え続けているもの、両方がある。

これが大きな問題なのである。

燃えうるものがなければ、きっと炎は燃えない。

いつかこの炎は止むのだろうか。

それとも全て燃え尽きたとき、はじめて鎮まるのだろうか。

今、ここにいる自分には無始以来の炎と燃えうるものが確実に在る。それは確かだ。

これは他人事ではなく、自分自身の致命的な問題なのである。

問題はいつも内に在る。

南無阿弥陀