むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

とどまる

何というか、宗教的であろうとする、と いうよりは、ただの一個の個体というか、 自身というか、そういう処、自分の居り場、 足元に帰る、足元を丁寧に掘り下げていく 作業をしたい、そんな気がする。 信者ではなく、ただのひと。 ただのどこにでもいる、だ…

煩悩が胸を焦がす

年末年始に考えたことが現実に起きた。 不相応の出来事であり、個人的には 理解も納得も全くできない。 何故ならその理由が明瞭かつ筋道の 通ったものではないからだ。 明らかに理不尽である。 今、妬みの煩悩が胸にある。 どうやら煩悩が起こる種を心身の底…

無限なる反復

修道とは、修習。 習とは反復すること、連続することです。 中略 見が連続していくから修道です。 中略 見が修になって見を完成していくわけ です。 中略 最後の修を通して完成された見は成仏 になるのです。信心成仏です。 このように聞くというのはただ聞…

悲しみの大地を踏みしめて

極重悪人唯称佛(正信念佛偈) 自分自身は決して助からぬ存在であり、 無有出離之縁と釘を打たれている。 だからと言って、自分だけの救いに留まる ことはできない。そんなものが何になる。 見よ。この悲惨で悲しみと嘆きと疲労と 空虚と差別と崩壊に満ちた…

わが名を称えよ

阿弥陀佛の本願は、 わが名を称えよという本願である。 われらからすれば、聞名である。 南無阿弥陀佛を 称えさせ、聞かせて、信じさせ、往生 させ、成仏せしめる。これが他力の おはたらきである。そして、 大悲念佛を通して智慧の信心が発起する。 誓願不…

一向専修

他者は自分の往生に責任をとることはない。 厳粛なひとりの問題、代わりは利かない。 自分は一向に専ら突き進みたいと思う。 何故なら他者は既に助かっているかも しれないが、自分はやはり助からないので ある。ただ何もないわけではなく、 明らかな方向が…

足掻く

いくら煩悩にまみれているといえども、 それは何もしない、傍観し、自分だけ 有難がることを肯定する理由にはならない。 助からない存在であることを、現実から 目を逸らす理由にしない。 いよいよ現実を観察し、自分自身に 回向された如来の信心を 表現しな…

方向

本当に煩悩しかない。 具足というお言葉が身に滲みる。 煩悩具足の凡夫。 しかし、方向はある。 わが名を称えよ、という本願からの道。 この道を尋ねればいい。この道は 浄土に通じている。なぜなら 浄土から至り届いて下さる道だからである。 南無阿弥陀佛

挫折の地をおもう

時々苦い思い出のある地を訪れる。 少し胸がチクっとする。思い出が蘇る。 何もできなかった半年。 今の自分が戻ったとしても、きっと太刀打ち できないだろう。でも、そういうだめな 自分でよいのだ。自分は自分を一歩一歩 進むしかない。ともに歩み、みそ…

沈静

ブログの更新頻度は落ちそうです。 具体的現実に対して、どうするのか、 これが直面する課題だからです。 実際に落とし込む、これはどういう意味が あるのだろう。なるほど、そういうことか。 こういう一人の問答を繰り返しています。 往生とは生活である。…

ひとにであうこと

人間の人生において、決定的な ことの一つに、ひとにであうことがある。 岐路では必ず大事なひとにであってきた。 忘れられぬことばがある。 だから、今がある。 南無阿弥陀佛

動きを観る 観察、止観

人間の言葉は一見美しく、甘美に聞こえる。 その言葉の本質を、その人の言葉がまことか 否かをはかるのは具体的なその人の姿、 佇まい、行動である。人相や声色、 匂いにも、 現れる。嫌な気配を感じると、 身は自然と距離を置く。近寄り難い。 僕は言葉は信…

暗がりに差す人すじの光。 進むべき方向がわかる。 光のはたらき、方向がわかれば、 安心してそちらへ進めばいい。 必ず出られる。 南無阿弥陀佛

信の純化と柔軟心の成就

他者を批判し、批評するのは簡単だ。 自分が問題にならず、外ばかり見ている。 しゃべらないのではない。 ただ黙っているのだ。 結果を出せば凡夫は黙る。 結果は待っていてはいつまでも来ない。 結果は準備、動きの果てに成就するものだと信じる。 自分が当…

念佛に極まる

念佛は大悲の相。 相に如来の心も行もこもっている。 もはや自分の心や有様に囚われず、 ただ、わが名を称えよの仰せ、助けずば おかないの仰せを聞き念佛を申す。 この選択本願念佛の一行をたもつ。 念佛から一切の行が溢れてくるが、 一切はわが力で行ずる…

念佛を申す

先生はいつも仰る。 今ここで念佛を申し、耳に聞く。 親鸞聖人、法然聖人は専修念佛、常念佛の お方であった。現在の浄土真宗では、 選択本願念佛を専ら行ずる、 無量寿佛の御名をたもつ、念佛行を軽んじて いる。今ここで口に声に出て下さる お念佛を聞く。…

念佛すべし

いつでもどこでも誰でも。 如来は常に仰っている。 わが名を称えよ。必ず往生させる。 故に迷えばいつでも仰せに帰る。 仰せはわれらの原点であり、帰着点である。 原点があるからまた戻れる。離れても また帰ればいい。 南無阿弥陀佛

南無阿弥陀佛

お念佛が今ここに至り届き聞こえて下さる。 ただそれだけで満足だ。わが心身の 有り様に微塵の用事なし。 南無阿弥陀佛

迷い続けている

この世で悟りを開くことはない。 煩悩具足の身であるが故に、と 親鸞聖人は仰っている。とても悲しい。 ただし一つの道まします。念佛往生の道と 名づく。煩悩がなくなることはない。 因はすでに具足す。縁は刺激、遭遇。 果は必然して催される。苦悩する。 …

念佛往生のすがた

往生とは実践、生活であり、相続である。 一念の信を生活を通じ、体当たりを通して、 繰り返し巻き返し何度も何度も確かめさせて 下さるのが、念佛往生である。 体当たりとは、目の前の現実を凝視し、 ことばを和らげ、忍耐をたもつ、 悪口を肚におさめるこ…

唯信仏語決定依行

親鸞聖人、愚禿鈔にいわく (西本願寺真宗聖典p522-523) 第五には、 唯仏語を信じ決定して行による、と。 第五の唯信仏語について、三遣、三随順、 三是名あり。 掘り下げて確かめる。 親鸞聖人は結局何を伝えて下さったのか? 唯仏語を信じ決定して行によ…

結果は過程を経る

結果を出さなければならない。 ごもっとも。 しかし、こうも思う。 過程を経ない結果はありえない。 時間をかけずに、如何に儲けるか。 こういう価値観が大半を占めている。 たとえ短期間で結果は出なくても、 何度転んでも、立ち上がり続け、 這いつくばっ…

本願ぼこりについて

浄土真宗における信心とは、 二種深信である。 機の深信、法の深信。 自身、わたくしは決してタスカラヌ存在で あり、ずっと流転し続けてきたし、今も 娑婆に縛られている。悪業を根本的に 止める力が欠如していると知らしめられる。 善導大師のお言葉は、こ…

生きた佛法

佛法とは生きたおはたらきである。 それは言葉だけで理解するものではなく、 現実を通し、身を通し、体解(たいげ) すべきものである。 お寺、僧侶を経済的価値観で計っては ならない。経済的価値観は、 必ず我が身にふりかかる。必然的に。 因果応報、自業…

聞法のはじめ

今年最初の聞法のご縁だった。 まず誓願ありき、誓いの御名ありき。 専修念佛。まずお念佛を申し、耳に聞く。 聞名をたもつ。 称えやすくたもち易い形にまで仕上げた 念佛を聞く。 形なき大悲が敢えて形をあらわしたのが 一声の念佛なるぞ。 善知識の仰せ、…

往生わが分限にあらず、如来の分限なり

いくら頑張っても人間には分限がある。 なんぼ考えてもわからない領域がある。 念佛の信心起こるは ひとえに法蔵菩薩の願心に依る。 念佛往生をたもち、果たし遂げるは ひとえに弥陀の住持に依る。 わが名を称えよの仰せに従い、念佛を申し、 聞くのがわが分…

寛容さを培いたい

自分と違う価値観を認めてあげよう。 いつの間にか同一、 均一でなければ許されないような状況に なっていて、とても窮屈で息苦しい。 常識、定説。慣習。はみ出したり、 遅かったり、違っていたりしてもいいじゃないか。 人知れず、存在を保つのは疲れるん…

忍耐は練達を

一年を振り返ると、またたく間だったような 気がするが、実りある一年だった気もする。 何が実りかというと、言葉にはならないのだが。 年末に次の言葉に出会った。 苦難は忍耐を。忍耐は練達を。 練達は希望を生む。 キリスト教のお言葉らしい。 練達とは柔…

ボヘミアン・ラプソディー

先日、ボヘミアン・ラプソディーという 映画を観た。 フレディー・マーキュリーという人、 クィーンというバンドのお話だった。 感想は、個人的に非常によかったのだが、 映画を通して、 自分が気がついていなかった、 いや、薄々感じてはいた寂しさ、 すな…

所在

娑婆には自分が自分でおれる場所がない。 本当にすべてさらけ出すこともできない。 また、 自分を受けとめうるものはいない。 如来とは浄土であり、浄土は如来であると いえよう。 寂滅、寂静、無為涅槃。こういう言葉に 心惹かれる。求めている世界である。…