むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

にんげん

全く仏法が身につかない

教えを聞き、念佛を申す。 色々やってみる。柔らかなことば。 応対。怒りの抑制。悲しいかな。ちっとも 変わらず、浅ましく情けない有様であり、 肉魚を食べ、酒を呑み、嘘や媚び諂い、 両舌、ごまかし、偽り、偽善にまみれきって いるが、どうしても離れる…

とどまる

何というか、宗教的であろうとする、と いうよりは、ただの一個の個体というか、 自身というか、そういう処、自分の居り場、 足元に帰る、足元を丁寧に掘り下げていく 作業をしたい、そんな気がする。 信者ではなく、ただのひと。 ただのどこにでもいる、だ…

煩悩が胸を焦がす

年末年始に考えたことが現実に起きた。 不相応の出来事であり、個人的には 理解も納得も全くできない。 何故ならその理由が明瞭かつ筋道の 通ったものではないからだ。 明らかに理不尽である。 今、妬みの煩悩が胸にある。 どうやら煩悩が起こる種を心身の底…

悲しみの大地を踏みしめて

極重悪人唯称佛(正信念佛偈) 自分自身は決して助からぬ存在であり、 無有出離之縁と釘を打たれている。 だからと言って、自分だけの救いに留まる ことはできない。そんなものが何になる。 見よ。この悲惨で悲しみと嘆きと疲労と 空虚と差別と崩壊に満ちた…

一向専修

他者は自分の往生に責任をとることはない。 厳粛なひとりの問題、代わりは利かない。 自分は一向に専ら突き進みたいと思う。 何故なら他者は既に助かっているかも しれないが、自分はやはり助からないので ある。ただ何もないわけではなく、 明らかな方向が…

足掻く

いくら煩悩にまみれているといえども、 それは何もしない、傍観し、自分だけ 有難がることを肯定する理由にはならない。 助からない存在であることを、現実から 目を逸らす理由にしない。 いよいよ現実を観察し、自分自身に 回向された如来の信心を 表現しな…

ひとにであうこと

人間の人生において、決定的な ことの一つに、ひとにであうことがある。 岐路では必ず大事なひとにであってきた。 忘れられぬことばがある。 だから、今がある。 南無阿弥陀佛

動きを観る 観察、止観

人間の言葉は一見美しく、甘美に聞こえる。 その言葉の本質を、その人の言葉がまことか 否かをはかるのは具体的なその人の姿、 佇まい、行動である。人相や声色、 匂いにも、 現れる。嫌な気配を感じると、 身は自然と距離を置く。近寄り難い。 僕は言葉は信…

迷い続けている

この世で悟りを開くことはない。 煩悩具足の身であるが故に、と 親鸞聖人は仰っている。とても悲しい。 ただし一つの道まします。念佛往生の道と 名づく。煩悩がなくなることはない。 因はすでに具足す。縁は刺激、遭遇。 果は必然して催される。苦悩する。 …

生きた佛法

佛法とは生きたおはたらきである。 それは言葉だけで理解するものではなく、 現実を通し、身を通し、体解(たいげ) すべきものである。 お寺、僧侶を経済的価値観で計っては ならない。経済的価値観は、 必ず我が身にふりかかる。必然的に。 因果応報、自業…

寛容さを培いたい

自分と違う価値観を認めてあげよう。 いつの間にか同一、 均一でなければ許されないような状況に なっていて、とても窮屈で息苦しい。 常識、定説。慣習。はみ出したり、 遅かったり、違っていたりしてもいいじゃないか。 人知れず、存在を保つのは疲れるん…

忍耐は練達を

一年を振り返ると、またたく間だったような 気がするが、実りある一年だった気もする。 何が実りかというと、言葉にはならないのだが。 年末に次の言葉に出会った。 苦難は忍耐を。忍耐は練達を。 練達は希望を生む。 キリスト教のお言葉らしい。 練達とは柔…

ボヘミアン・ラプソディー

先日、ボヘミアン・ラプソディーという 映画を観た。 フレディー・マーキュリーという人、 クィーンというバンドのお話だった。 感想は、個人的に非常によかったのだが、 映画を通して、 自分が気がついていなかった、 いや、薄々感じてはいた寂しさ、 すな…

所在

娑婆には自分が自分でおれる場所がない。 本当にすべてさらけ出すこともできない。 また、 自分を受けとめうるものはいない。 如来とは浄土であり、浄土は如来であると いえよう。 寂滅、寂静、無為涅槃。こういう言葉に 心惹かれる。求めている世界である。…

ただ聞かせて頂くばかり

本願力回向で往生せしめられる。 平等の慈悲にもよおされて、 あまねく一切を摂せんとわれらのために 立ち上がってくださったのが、法蔵菩薩で あると教えて頂く。 いちいちの本願にのたまわく、 われ汝を往生させずば、誓いて佛になること あることなし、と…

煩悩は苦しいがそれだけでは終わらない

他の方はどうかしらないが、 まぁわが煩悩は静まらず、落ち着きがない。 他者を責め、今与えられている境遇にも 感謝がない。不満ばかりである。 頂いた佛恩を忘れて、まことに粗末な 有様であります。そういう心しかない存在が 自分であると知らされるので…

師は弟子に出遇い成就する

大切なことに気がついた。 師は弟子に見出されることを通じて、 初めて師として成就するのだと。 法然聖人は親鸞聖人に勢至菩薩の化身に違い ないと見出された。そこで法然聖人自身も 救われたのだと思う。 お釈迦様は決して自分は如来であるなどとは 言わな…

迷ったら帰ればいいんだよ

迷ったらいつでも大悲に帰ればいい。 大悲の相が南無阿弥陀佛。 念佛を申せばなむあみだぶつと聞こえる。 その言葉は如来回向の大行。すなわち、 共に居る、必ず往生させる、任せよの仰せ。 いつでもどこにいようとも、助けるの仰せは 変わらない。 念佛を申…

娑婆世界は苦しい

新しい視点を得て、改めて観察するに、 ここは娑婆世界なのだなと痛みを感じる。 あたたかいやりとりがない。 お互いに無関心であるし、自分自身も 縁のない衆生に対して関心が全くわかない。 こういう自分と世界にどう関わればよいか。 難しい問題がまた露…

課題と並行して進めていきます

課題は課題として、しっかり考えますが、 僕自身は何者にも縛られずに、 自由に念佛の信心を確かめていきたいのであります。 流れるままに、徒然なるままに。 本当に求めていたこと、今も求めていることは、 まことの自由・まことの平等・まことの連帯。 こ…

にんげんがいた

好い時を過ごした。 にんげんがたくさんいた。 まだ言葉にまとまらないが、終わった静けさ、余韻がある。 不思議な集まりだった。 南無阿弥陀佛 帰命無碍光如来 南無不可思議光 南無三宝

声のほとけさま

11月1日、ブログを始めてから丸三年の月日が経ちました。 こんな妙なブログを、どんな方がご覧になっているのでしょうか? 少し興味があります。もし良ければコメントで教えて下さい(笑) さて、これまでを振り返りますと、 よく一年過ごせた、生き延びれた…

東山魁夷という画家の作品に、「道」というものがあります。 描かれた道は、これまで辿ってきた道でもあり、 これからまだ続いていく道でもある。 東山氏はこんなふうに仰っていた。 阿弥陀佛の本願は如何なる衆生であっても、 その存在に対して垂直かつ不断…

亡くなった方を偲んで

一年前、葬儀に参列した。 涙が出なかった。闘病の結果、亡骸は 頭髪がまばらでお痩せになっていた。 その時に初めて通しで聞いたのが般若心経だった。 帰りに本屋で般若心経の小さな本を買って、今も時々お勤めをしている。 この一年、般若経に関わる本をい…

共に苦悩の凡夫である

いしかわらつぶての如くなるわれら。 親鸞聖人の言葉はあたたかい。 このわれらという言葉の響き。そして、 凡夫という智慧の言葉。 共に苦悩の凡夫たるわれら、阿弥陀如来平等の大悲に摂取され共に往生遂げたし。 十年前、相田みつをさんのこの言葉も大事な…

煩悩を憎まない

煩悩を憎み、叩きつぶそうとしていた。 阿弥陀如来の智慧は煩悩を菩提に変えなしてくださる。 煩悩がなかったならば念仏申すこともなかっただろう。 むなしさがなかったならば、これでよいのだろうかと思うこともなかっただろう。 煩悩即菩提。生死即涅槃。…

念佛に何度でも帰れ

迷いは死ぬまでとれないと親鸞聖人は仰る。 だからこそ助けるの仰せ、即ち南無阿弥陀佛、念佛に帰れ。 そこにはいつでも大悲が待っている。 何度でも信の一念を繰り返す。 難儀で救われようのない現実を堪えしむる、 これが念佛の大悲である。 南無阿弥陀佛

愚者なりて往生す

親鸞聖人がご晩年に法然聖人から聞いたことを ご述懐されたお言葉です。 このお心を尋ねますに、念佛に帰れということでありましょう。 分かったような気分になる。助かったような気になる。 自分の思いはいらんのであります。 自分が助かるか助からないか知…

往生は慈悲の表現

法は広めるものではなく、 最も如来から教化されたひとを通して、 広まるものである。 これは真宗大谷派、和田稠先生の 真宗門徒という本の中にでる一節です。 僕にとって和田先生は往生の先生。 往生は念佛生活であり、具体的現実、 実際の生活で如何に浄土…

弥陀の本願

選択本願念佛とはわたしの原点であり、一切衆生の原点である。 自分は凡夫である。故に何度でも本願念佛の道から曲がっていく。 常にわが心身への楽を中心に考察し、行動する。 この身を具足している以上、煩悩を避けることはできない。 かといって、煩悩に…