十地経
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/31/1/31_1_126/_article/-char/ja/ 真宗では往生の道程をあまり聞かない。 歓喜地は出発点であり、到達点ではない。 まだ先があり、その深さは底知れない。 十地経というお経があり、僕自身はこのお経から大き…
僕自身の聞法における起点の師は、藤谷秀道先生です。 その前に、出会いがなかった訳ではないのですが、藤谷先生とのご縁がなければ、再び聴聞に赴き続けていく、ということはなかったのではないかと思うのです。 まだ明らかにせねばならないことがある。 十…
念仏に張り合いがない、勇みがない、勇猛心がなくなってくる。これがつまり菩薩のうえでいえば、七地沈空の難である。これは菩薩のある倦怠期である。求むべき菩提もなく、度すべき衆生もない。(p258 歎異抄聴記 曽我量深師) 解ったという喜び。 確かにな…
自分は、どこの寺院にも所属していない。 多分ずっとそうなのだろうと思う。 寄っかかりたくないというか、依存したくないというか。 お釈迦様はおっしゃられた。筏の例え。 船は岸辺へ着いたら、船はそこに置いて歩いていく。いつまでも船の周りでたむろし…
たびたびすみません。暫く休みます。理由は、資格受験のため、です。大したものではないのですが、まず足掛かりとして、取らないといけないものがありまして。 知ったこと、と、できることは違う、と言われます。もし知っているならば、できないと意味がない…
完全に社会に身を置きつつ、それに染まらずに佛の教えを聞き往生を期する。それが本当の菩薩の相というものだろう。声聞には声聞の教えを、縁覚には縁覚の教えを、菩薩には菩薩の教えを、無仏法の人には、道徳を説く。一つに固執せず、時と場と人に応じた道…
ここからは少しも読めません。わからないのです。わからないことは、わからないのであります。だから、書くこともできない。 六地以降も同じでした。全く読み進めることができない、暫くして、少しずつ、読み進める。こういう進み方です。でも焦らなくていい…
参考 大乗仏典⑧十地経(荒牧典俊訳)中央文庫p243 かの菩薩にとって、主観客観の概念作用(ニ行)も個的実体の概念作用(相行)も、もはや、いかなるものも、いかなるしかたでも、あらわれない。 菩薩がこの階梯に入ると、七地までとは、全く異なる段階に達…
参考 大乗仏典⑧十地経(荒牧典俊訳)中央文庫p186根本の真理についての無知がはたらいて条件となっているかぎり、まよいの存在の構成要素も、つぎつぎに存在しつづける。もし、根本条件やさまざまな条件が、すべて滅亡してしまうならば、それらもつぎつぎに…
参考 大乗仏典⑧十地経(荒牧典俊訳)中央文庫p104般若の智慧なるものは、教えを聴聞することにはじまると思惟して、そのように知って、菩薩は勇猛に努力をはじめる。原文の書き下しを添える。 無礙解脱等の諸の仏法は、何をか以て本と為すや。聞法を離れざる…
参考 大乗仏典⑧十地経(荒牧典俊訳)中央文庫p41 (3)かの菩薩は、自我に執着する妄想(我見)が消滅している。したがって、自我の観念も存在しない。それゆえに、かの菩薩には、死んでしまったらどうしようという不安もない。 煩悩は見えると力を失う。明…
参考 大乗仏典⑧十地経(荒牧典俊訳)中央文庫歓喜地 p42 五種の不安の解消(1)生活していけるかどうか(2)名声にありつけなかったらどうしよう(3)死んでしまったらどうしよう(4)苦悩に満ちた存在に生まれるかもしれない(5)説法会にあって、おどおど…
参考 大乗仏典⑧十地経(荒牧典俊訳)中央文庫 十地経は菩薩の階梯を十で表して下さったお経であります。浄土真宗では、浄土三部経が中心なため、あまり縁がないかもしれませんが、非常に大切なことが示唆されたものだと感じます。親鸞聖人の顕浄土真実教行証…
親鸞聖人の恩徳を偲び、各地では報恩講のお勤めがなされている。 昨日は正信念佛偈を拝読した。 不退の位に摂取される、このことが人身を受 けた所詮であると、しみじみ思う。 不退転とは、菩薩の階梯で表現されるところの四十一段目、 初歓喜地において、初…
大切なことは、煩悩を離れることはできないということ。すなわち決して助からぬこと。 そして、煩悩具足、いしかわらつぶての如くなるわれらであること。 七地ではまだ躊躇がある。 八地にはもはや躊躇はない。ひたすら行ずる。 体当たりである。 七地までは…
藤谷秀道先生のことばです。 十地経が初歓喜地から法雲地まで述べられて いることにも関わってくると思うのですが、 たとえ信心決定しても、煩悩を具足、即ち 身にまとっていることは変わらぬのです。 それどころかいよいよ深く、浅ましいことを 如何に知ら…
十地経にのたまわく、八地以上の菩薩の行は無功用である、と。 わたくしが考えまするに、七地以前の菩薩の眼目は自利である。 自利には限りがある。広がりと深さがなく、我執の習気を感じる。 聞其名号、大悲が届いたとき、大いなる歓喜が起こる。 それは刹…
達磨大師の言葉に、無所得があると聞いております。 曽我量深先生の言葉に、回向は表現であるというものがあります。 往生は表現であると僕は思います。そして、それを表現する人を 諸仏に等しい方々だと思います。そして、その方々は今も満ち満ちて おられ…