むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

念佛

智慧が導いてくださる

一切智が如来を如来たらしめていると経典に 説いてある。最近は般若経を聴聞している。 聴聞しているといっても本を拝読しているという意味だが。 智慧の念佛。信心の智慧。智慧の光明。 光明無量。無辺光。 無執着は般若の智慧に依って裏付けられているから…

無執着

浄土にもこだわらない。 悟りにもこだわらない。 煩悩にもこだわらない。 娑婆にもこだわらない。 菩薩大士の相は無相であるそうな。 相がないから何にでも染まり、何者にも染まらない。 念佛の友を貪り傷つけ葬るわが身を悲しんでは忘れ 忘れては思い出して…

もろともに

あまねく一切を摂せん。この御心が佛心であると頂く。 この御心は平等の慈悲に催されて起こったという。 我らは法蔵菩薩の平等の大悲願心で、必ず報土、すなわち 法蔵菩薩の本願に依って建立された、本願に報いた国土へ 往生せしめられるのである。そこにも…

念佛の大悲まします

失踪というテレビ番組を見た感想を書く。 おそらく誰かに自分を受け止めてほしい、 大事にされたいのだろうなと思った。 失踪し家を離れた彼女たちは言っていた。 自分には何の価値もない、と。 親鸞聖人は、いしかわらつぶての如くなる われらと仰った。 ど…

念佛を申す

ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし(歎異抄) 無量寿佛の御名をたもて(観無量寿経) 如来、善知識のお勧めにしたがい、ただ念佛を申す。 念佛を申すところに帰れば、自身は煩悩具足の凡夫。 世界は火宅無常の世界。 だからこそ往生させずばおかんと…

自分は何者であり、ここはどこか、が破られる

浄土真宗の救いとは、二種深信であるといわれる。 智慧による深信である。深信とは決定、確定である。 そこに何かが介在する余地は微塵もない。故に決定であり、 確定である。 自分は間違いなく如来の仰る凡夫であるということ。 つまり、決してタスカラヌ身…

むなしさはむなしさのままで

如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり(正像末和讃) 苦悩の有情とはわれであり、われらであります。 根機つたないとて悲しむなよ。助けるぞよと 喚びたもうなり。親鸞聖人のたまわく、 喚ばふとは喚びづ…

大悲を聞け

あるお寺へ行った。お話は機を責めるようなものだった。 自分には不要でしたので、午前中で帰りました。 機を責めたところで、せいぜい自己反省、若干の自己否定で 終わるより他にない。聞いたその時はあぁと思っても、 寺を一歩でたらすぐに忘れ果てるでし…

本願のかたじけなさよ

かたちあるものは移ろい、滅んではまた生まれていく。 ただ如来のみ常住であり、無常と煩悩を超えているが故に、 常住である。 この世の一切はもえている、と釈迦如来は仰っている。 自分が全くの凡夫であり、助かりようがないことを 徹底的に知らしめる。何…

聞くばかり

今口に称え、この耳に聞こえるこの一声を聞く。 それ以外に具体的な本願のおはたらきはない。 この一声の因は法蔵比丘の助けずばおかんの願心。 因がまことならば果もまこと。 この一声を聞く。念佛とは聞くものであります。 南無阿弥陀佛

無常

無常に良し悪しなし。 それを自分の都合にとって良し悪しの色をつけ嘆く。 自然に対してさえ我らはあまりに小さく無力である。 直面する変化に対峙するとき、ただ立ち止まり、 ただ立ち尽くす。 況や何人も死を免れること能わず。 凡夫たるわれに、事実を受…

煩悩をくだく光

解脱の光輪きわもなし 光觸かふるものはみな 有無をはなるとのべたまう 平等覚に帰命せよ(浄土和讃) 和讃には、左訓を書いて下さっていて、わざわざ親鸞聖人がこの言葉の意味を ご自身の言葉で残して下さっている。 輪の左訓 くだく。解脱といふは、悟りを…

念佛往生

弥陀の本願ともうすは、名号をとなえんものをば 極楽へむかえんとちかわせたまいたるをふかく信じて、 となうるがめでたきことにてそうろうなり(末燈鈔) 親鸞聖人の言葉です。 ただ称えるよりほかに道はなし。 ただ聞くばかり。 南無阿弥陀佛

マカセヨタスケルの南無阿弥陀佛

南無とは、マカセヨ。 阿弥陀佛とは、タスケル。 助からん汝を助けずばおかん。わが名を称えよ。 如来の無限大悲が敢えて自らを否定してまで、その御心を わたしに告げ知らせるのが、お念佛であったとは驚嘆すべき大悲である。 任せる力も信じる力もないわた…

目が見ているのがただ見えている。 それだけ。 念佛申せよ。仰せに従いただ念佛を申す。 南無阿弥陀佛

弥陀に帰命せよ

一心一向に弥陀に帰命せよ。 善知識の仰せはそれだけである。 ほかに善知識の仰せはない。 この仰せに従う。 しかし自分には従う力もない。即ち助からない。 だから南無のお心までご成就くださるのである。 漏れようがないまことの大悲を有難く思う。 南無阿…

こころの時代、宗教の時間

日々を生活する中で、苦悩の有情ばかりだと思います。 親鸞聖人はわれらと仰る。われらとはわれを含む。 かれらにわれは含まれない。 タイトルの番組は誰もが見て、聞くことのできるものです。 僕は真宗に限らず、色んな話が聞きたい。 そこに法を感じられる…

諸佛阿弥陀

汝、わが名を称えよ。わが願力で必ず往生させる。 これが乃至十念 若不生者 不取正覚の誓い、無量寿佛の仰せである。 汝、無量寿佛の御名を持て、持てとは称えつつ聞けよの仰せ。 これが釈迦如来の仰せである。 浄土真宗は二尊の仰せに従うのである。 仰せに…

仏恩を思う

南無阿弥陀佛という声にまで、お成り下さり、 常に呼び掛け、抱き続け、照らし続け、言い当て続けてくださる、 無量寿仏に深く帰依致します。 帰依する心さえないので、帰依する心まで回向下さって、 助けるぞと呼んでくださるのが、今口に称え、耳に聞こえ…

佛の方より往生は治定せしめたまう

往生とは、聞其名号の一念において、 佛の方より定めて下さるものである。 死ぬことでもないし、立ち往生と云う言葉も間違っている。 間違っているが、それでも、テレビ等で仏教のお言葉が聞けるのは 有難い。往生とは幅のあるものであり、一時点だけを指す…

南無阿弥陀佛のいわれ

然ればすなわち弥陀如来、 法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催され、普く一切を摂せんが為に、 造像起塔等の諸行を以て、往生の本願としたまわず。 ただ称名念仏の一行を 以て、その本願としたまえるなり。 (『選択本願念仏集』第三章) 南無阿弥陀佛の謂れを聞…

仰せに従う

なんぢよくこの語を持て。 この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり。 (観無量寿経、註釈版聖典117頁) 持て(たもて)ということは、称え続け、聞き続け、一期を貫けの仰せ。 善知識や菩薩方の教えも有難い。 釈して下さらねば、御心…

聞と行

不思議なご縁で新年を迎えることができました。有難うございます。 本当は一日一日がかけがえのない大切な一日に違いないけれど、 どうしても年末年始は少し特別な感を抱いてしまいます。 今年の自分の課題は「聞」「行」であります。 聞とは、ひたすら聞く…

仰せが佛法

自分には他力は分からない。不可称不可説不可思議の故に。 ただ、お前を必ず助けるぞ、間違わさぬぞの仰せがただただ嬉しい。 仰せとは、今わが口に称えさせられ、耳に聞こえてくるお念佛。 それ以外にない。故に勅命と親鸞聖人は仰った。 お念佛が聞こえる…

煩悩具足

煩悩具足、煩悩成就の身である。 凡夫というは無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、 いかりはらだちそねみねたむこころおおくひまなくして、 臨終の一念に至るまでとどまらずきえずたえず(一念多念文意) どんだけ信を獲たとか、わかったとかいっ…

助かるのではなくて助けられる

真宗の救いとは、自力無効である。 わが力及ばず。 あるいは、わが身、わが心の浅ましさを智慧によって知らされる。 煩悩がなくなるのではない。煩悩を滅することは今生では不可能である。 また苦しみ悲しみがなくなることはない。ここは娑婆だから。 堪忍の…

孤独

人間は決定的に孤独である。 しかし、孤独を抱える者は決してひとりではない。 分かり合えねど、孤独を共に背負うものを友という。凡夫という。 おそらく今日を最後に、二度と会わぬ者に言えぬ言葉をつづる。 さようなら。 南無阿弥陀佛 心は必ず相をとる。…

佛智疑惑

どうしても如来のことを、如来の教法を信じることができない。 いくら聞いても、いくら善行を行っても、何にも変わらない。 どうしても煩悩が雑ざる。そもそも善行かどうかを決める主体は自分であり、 善行である根拠がない。何も分からないではないか。 世…

唯信佛語決定依行

愚禿鈔のお言葉である。 ただ佛語を信じ、決定して行に依る(註釈版真宗聖典P522) 自分の場合、最後にとどめをさされたのは、佛説であるということだった。 凡夫の言葉ではなくて、佛のお言葉である。 そのお言葉が「無量寿佛の御名をたもて」ということで…

往生礼讚

もし衆生ありて阿弥陀仏を称念すること、 もしは七日および一日、下十声乃至一声、一念等に至るまで、 かならず往生を得。この事を証誠したまふが故に護念経と名づく。 (真宗聖典 七祖編p712 往生礼讚 後述) わが名を称える者よ、汝よ、流転したくても流…