むなしさとともに

徒然なるままに。自分のために、そして、いつか如来に出遇う誰かのために。

いつまでも、どこまでも

いつでも、どこでもと思っていたが違っていた。 (170719追記 違うというのは、その意味だけではなかったということ。 つまり、いつまでも、どこまでもに包含された、いつでも、どこでもで あるということ) 如来の大悲は、いつまでも、どこまでも。 必ず助…

聖徳太子

親鸞聖人がどうして聖徳太子を讃嘆されたかわからなかった。 夢のお告げだけとは思えなかった。 太子の著作を初めて読んで驚いた。 太子は佛のお心が分かっておられた方とは知らなかった。 希有の心を生ずとは、常住を聞くを謂うなり。 通じて論ずることを為…

ねんぶつのうた

最近は、法話の場に行っても、話の内容や言葉を覚えようという気持ちが なくなってしまい、ただ有縁の先生のお顔を見に行っているような、 そんな感覚でおります。 お念佛もおろそかで、日常はあれやこれやで毎日が過ぎております。 いくら自分が忘れても、…

無蓋の大悲

大悲を思う。 よくぞこのような世界に如来が人の姿をとって現れて下さったものだ。 本当にご苦労下さったと思う。 そしてその説いて下さったお言葉が、今日、仏縁のない自分にまで ついに至り届いて、お念佛を申す身にまで仕上げて下さったことに 深く深く感…

諦かに見る(現実を凝視する)

他の方はともかく、自分については、救いとは無縁である。 どうしても自己中心性を離れることができない。傷つけ、裏切ることしか できない。嘘と偽りだらけである。 わが身わが心を諦かに見る。救いはどこにもない。どうにもならない。 そこに、一つのよび…

すべて知っているよ

光明は智慧なりと親鸞聖人は仰った。 この言葉を味わうに、智慧とは、全てを見通す力、神通力のように 思っていたが、そうではないと思う。 人の痛み、悲しみ、苦しみを感じられるのは、 その人が身をもって、それらを味わったからこそ、 それらを何とかして…

万劫の仇とは何か?

最近思うのは、自分は全く何も知らないし、分からない。 根本的に分かってあげる力がない、ということである。 誰かのことをわかってあげることができない、受け止めることが できないということは、自分も受け止められることがない、ということになる。 自…

形から心を聞く

心は目に見えない。 だからといって、ないわけではない。 形を凝視すれば、心を見出すことができる。 心は形に現れる。形とは姿、相である。 南無阿弥陀佛とは、大悲の相である。 大悲の相とは、喚ばふ、ということ。喚ばふとは、喚び続けるということ。 喚…

おぉ阿弥陀よ

よびづめ たちづめ 招きづめ 弥陀は焦がれてあいにきた そのお姿が南無阿弥陀佛(松並松五郎先生のおうた) このくちにあらわれたまう念佛がまさか如来ご自身であったとは。 まぁご親切に、自分がいなければ阿弥陀にならんですんだのに ほんにご苦労をかけま…

またしばらくお休みします

122 一宗の繁昌と申すは、人の多くあつまり、威の大なる事にてはなく候う。一人なりとも、人の、信を取るが、一宗の繁昌に候う。しかれば、「専修正行の繁昌は、遺弟の念力より成ず」(式文)と、あそばされおかれ候う(蓮如上人御一代記聞書) 立派な法要に…

法性のまこと

弥陀佛は自然のやうをしらせんりょうなり(末灯抄) いろもなく、かたちもない、言葉尽き果てた無上佛。 そのお心は、すべてのいきとしいけるものを、すべてもらさず、 立派にしてやりたい、という大悲。 無上佛を法性のまことと藤谷秀道先生は仰った。 弥陀…

存在の有様

衆生とともに、ほかのいのちとともにしか存在できないにも限らず、 自分はほかの命を貪り、利用し、捨てるようなことでしか生きられない。 いくらすべきではない、と思っても、それを止める力がない。 気がついたら、もう、すでに、している。 自覚のないと…

衆生とともに

人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。 …

助けるの仰せ

如来は待っている。衆生を信じて待っている。 ただ待っているのではなくて、動きながら待っている。 すべてを知り抜いて、どうしても助からない、迷いに埋もれるしかない このわたしを、だからこそ、我は決して汝を捨てない、と仰っている。 これが弥陀の誓…

有縁の知識

私が現在ご縁のある先生方については、事前に相談等も必要だと 思いますし、その人の信仰の状況にも関わることなので、 このような場では申し上げるつもりはありません。 しかし既に往生された先生方ならば、お伝えできると思います。 二人おられます。 藤谷…

願力無窮

無明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ 願力無窮にましませば 罪業甚深もおもからず 佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず(正像末和讃) 自分の心と我が身を相手にしない。そこからは妄念妄想以外に…

聞思

しばらく疑問を至してついに明証を出だす(顕浄土真実教行証文類 信巻) 親鸞聖人の聞思の姿勢を感じる。 言葉を掘り下げる、文章は行間を読む、仏法に体当たりをする。 専ら念佛を聞く。 僕には、時々このようなことに浸る時節があるようです。 止観、観察…

如来との対話

比較の煩悩が起こり、惨めな気持ちが湧いてくる。 持つ者を羨み、ねたむ。そして、落ち込みそうになる。 すぐさま一声、如来が仰る。 弥陀がおるぞよ。弥陀じゃ不足か? あぁ、そうだった、阿弥陀さんまします。助けると仰せがあった。 いいえ、まことに十分…

貫き徹す

念佛は無碍であり、無碍とは貫き徹すことである。 これが自分が体解している仏法であります。 念佛が塞がろうとするわが心をこじ開ける。 本願がわが身を助からない身に引き戻す。 願力無窮、無為自然。 苦しみ嘆き悲しみに心身を浸す。つかる。沈む。どうに…

師に遇えたよろこび

曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき 本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし(高僧和讃) 生きた念佛の行者である先生に出遇わせて頂き、 とても嬉しく有難く思っている。先生は、苦労を重ねられ、沢山の先生に 道を尋ねられ、苦悩し、念佛…

一匹の虫

たまたま手に虫が止まった。 たまたまである。 なぜ自分と彼は出会っただろう? なぜだろう?不思議の因縁を思う。 手に触れて、彼は飛び立っていった。 彼と自分には、ともにひとつの命がながれている。 不思議な因縁を感じる。彼に仏縁あれかし。 南無阿弥…

大悲のいわれ

もろもろの衆生を視そなわすこと、自己のごとし(仏説無量寿経) 自分と衆生、わたしを分けずに自身として、 私の上に必ず本願を成就しようと大悲を起こされ、 敢えて言葉に成り下がり、南無阿弥陀佛の声にまで 成って下さったご親切。 それを南無阿弥陀佛の…

念佛は無碍なり

念佛は無碍なり。 無碍とは我が身我が煩悩を貫くなり。 貫くとは障りなく、届くなり。 届くとは聞こえるなり。 聞こえるとは称えるなり。 称えるままが聞くことなり。 念佛は貫くなり。専ら弥陀の名号を聞く。 我が身我が心のありように囚われず、専ら念佛を…

如来ともにまします

絶望を光に転じる出遇いだった。 念佛との出遇いから、もうすぐ丸二年である。 もしも救われるということがあるのであれば、 自分一人ではなく、一切のともがらが、ともに浄土へ 往生することであろう。信心は所有物ではなく、 身につくものであると金子先生…

いのちのともがら

十方衆生とは、みなご縁のある者ということだと思う。 われらは、弥陀に助けられるべき存在であり、業が違うので、 姿形性格、性別さまざまな違いはあるけれども、 生まれてしまった者、必ず死に帰さねばならない者という点において、 全く同質のともがらで…

一向専修

法然聖人、親鸞聖人は一向専修の人であったはずだ。 その流れを組む者であれば、念佛を申せという仰せに 従い、念佛を専ら聞くのが自然であろう。 祈願請求の念佛ではなく、わざわざ南無阿弥陀佛にまで 成ってくださって、今ここに声に出でて下さる。 念佛に…

無有出離之縁

出離の縁がない、助からないということはどういうことかというと、 この身この心では、十悪五逆誹謗正法という生活から、 どうしても離れることができないということだと思う。 生死流転とは経巡り続けるという響きがある。 出所、上流が腐っていれば、以下…

であい

ひとつひとつのであいが、今のわたしをつくっている。 これからもつくってゆく。 つくりつづけてゆく。 あのであいがなければ、いま、ここにあるわたしではなかった。 ながしたなみだも、かなしみも、くやしさも、みじめさも、 いきどおりも、よろこびも、む…

勅命

如来の勅命に従う。 ただそれだけ。 われに用事なし。そのまま貫く南無阿弥陀佛。

言葉尽きて

いよいよ言葉が尽きてきました。 専ら仰せに従う。 それだけであります。 乃至十念 若不生者 不取正覚 (仏説無量寿経 第十八願 念佛往生の悲願) 我が名を称えるばかりで、必ず我が浄土に生まれさせる。 汝は念佛を申すだけでよい。一切は弥陀が全責任を負…