確かに今、人として生まれた自分は、本当に頼りなく、
力のなく、慈悲のない者である。それは事実である。
変えようがない。
しかし、今人として生まれたということは、
数え切れないにんげんの歴史の上で、たまたま起こったことと
いえる。
生まれてすぐ無くなった兄弟もいた。
涙に暮れた日暮もあった。笑った日々もあった。
突然この世を去った方もいた。天寿を全うした、というような人もいた。
世間的にうまくいった人生があれば、苦悩のどん底に沈んだ人もいた。
戦争に行った祖父もいた。祖父の帰りを待つ祖母もいた。子どもたちもいた。
女手ひとつで、子どもたちを育てた母もいた。
それらの無量永劫の時の中で、今、たまたま、受けがたい人身を
受けた。
本当に聞き難い佛法を今すでに聞くことを得た。
数え切れない名も無き人々の歴史の上に、今、こうして在る。
たまたま行信を獲れば、遠く宿縁を慶べ、と親鸞聖人は仰る。
あぁ、弘誓の強縁は億劫にも獲がたし。
そういう時を頂いているのだなぁと思う。ただ、思いは思いのままに、
ただ彼の名を称う。
本願とともに。南無阿弥陀佛