むなしさとともに

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無碍の一道

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、

 

信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。

 

罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、

 

無碍の一道なりと云々(歎異抄 第七章)

 

 

仏法は、障り(苦ー思い通りにいかないこと)を滅する、という教えではない。

 

信心の行者にも、障りが絶えず存在する(その事実は何一つ変わらない)のである。

 

ただし、仏の智恵、仏智で、その障りを「障りのまま」、転じて下さるのである。

これを、『転悪成善』、あるいは『転悪成徳』と味わう。

 

苦しみは、自分の行った業と縁が和合して、結果となる。

よって、それは自分で受けていかなければならない(自業自得)

 

ただし、仏が自分自身と一体となり、その智慧をもって、苦を転じてくださる。

 

だから、念仏者(真実信心の者)の歩む道は、無碍の一道である、と

 

おっしゃる、と身を以って思うのである。

 

そして、そのことに決して返すことができない恩徳を思い、日々、

念仏せざるを得ないのである。これを御恩報謝の念仏と味わっている。

 

15/12/19追記 感謝は人間の感情において、清らかなものだと思う。

       おかげさまで、そう言えることの背景に、すでに

       感謝せしむる本願力があるのではないか。