むなしさとともに

徒然なるままに、真宗の味わいを書いていきたいと思います。不快な方は、予めご遠慮ください。

是非しらず邪正もわかぬこのみなり

是非しらず邪正もわかぬ
 このみなり
 小慈小悲もなけれども
 名利に人師をこのむなり

正像末和讃116)

 

わが身(わたし)は、何が正しくて(良いこと)、

何が誤っていること(間違ったこと)なのか、

判断ができない。

 

ものを哀れみ、いつくしむような心はなく、名声、地位、そのようなものばかりを

求めるばかりである(と私は味わいます)

 

最近、身に沁みて思います。

自分には、善も悪も判断する力がない、と。

 

誰かのために、何かのために、と思ってやったことが、別の人の気持ちを害することに

なったり。別に傷つけるつもりがなくても、相手が深く傷ついてしまったり。

 

片方を上げれば、片方が沈む。このようなものだなぁと。

 

それでも、ええ格好しい、というか、人には嫌われたくない。悪口は良い気がしない。

それが自分の本心です。

 

なので、善因善果悪因悪果といわれても何が善で何が悪なのか、

自分にはまるで、わかりません。

 

お釈迦様が「善行をおさめよ」とおっしゃっても、私には

それをおさめる力がないのです。

 

以前は少しはある、と思っていたのですが、皆無でした。

 

ただし、自業自得、自因自果は何となくわかりますので、それらをただ、

引き受けていく。ただし、まともに受けていては、大変苦しい。難儀である。

そのことを親鸞聖人は「難度海」とおっしゃった。

 

 

なので、阿弥陀如来の智慧、転ずる智慧、念仏に支えられて、とぼとぼと

歩むしかないのだろうな、と思っています。

 

自分の力では、とても渡りきれないのが、この人間の世界だと思うからです。

だからこそ、自分を決して裏切らない拠り所が、必要なのだと思うのです。

 

16.1.12追記)ひっくり返るもの、ことを、そもそも、真実、善、

      悪と呼べるのだろうか?そして、それしかできないわたし自身や、

      わたしの行いにまことはない。わたしの都合や勝手な思いによる行いの 

      ことを善だ、悪だ、と言っていたということを少しずつお育て頂いており

      ます。