これさらにしずかに観じ、ふかく念ずるにあらず、
ただくちに名号を称するなり(唯信鈔 真宗聖典 大谷派P925)
最近、唯信鈔をあじわっています。
如来が見てとる人の姿とは一体どのようなものでしょうか。
私自身は、根本的に善悪を判断する力がなく、
自分自身を自分で支えることもできないものです。
何の力もなく、善の一つも積めない。積めないのではなく、
無知なのだと思います。
そういう宿業を抱えた私のために、如来は名号となりて、
呼びかけ、あわれみ、待っていて下された。
私には、幸い口と耳だけはあったのです。
浄土宗のひとは愚者になりて往生する、と法然上人はおっしゃっておられたと
聞いております。
何一つもたず、身にそわず、間に合わないひとのための本願とあじわいます。
ただくちに名号を称するなり。ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし。
このことに尽きると思います。
念佛唯一行 一切自己全託 信楽開発 報恩感謝
2016.4.5 追記)
ただ念佛は、法蔵菩薩の思惟の結論であり、それは、必ず、浄土へ往生させる、
という決意、覚悟だと味わいます。いつ、どこで、どんな状態、どんな心を
抱えようとも、今の、そのままの、一切の汝をこの弥陀が引き受ける、
という本願を成就する為の名号、これを正定の業と名づくと頂きます。
今のあなたの心のままに、今の私の心のままに、念佛申せ、これが
如来の本願であり、それに相応することで、信楽が開発する、と体解します。
本願と共に。