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むなしさとともに

徒然なるままに、真宗の味わいを書いていきたいと思います。不快な方は、予めご遠慮ください。

16/4/5追記)ただくちに名号を称するなり

これさらにしずかに観じ、ふかく念ずるにあらず、

ただくちに名号を称するなり(唯信鈔 真宗聖典 大谷派P925)

 

最近、唯信鈔をあじわっています。

 

如来が見てとる人の姿とは一体どのようなものでしょうか。

 

私自身は、根本的に善悪を判断する力がなく、

自分自身を自分で支えることもできないものです。

 

何の力もなく、善の一つも積めない。積めないのではなく、

無知なのだと思います。

 

そういう宿業を抱えた私のために、如来は名号となりて、

呼びかけ、あわれみ、待っていて下された。

 

私には、幸い口と耳だけはあったのです。

 

 

浄土宗のひとは愚者になりて往生する、と法然上人はおっしゃっておられたと

 

聞いております。

 

何一つもたず、身にそわず、間に合わないひとのための本願とあじわいます。

 

ただくちに名号を称するなり。ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし。

 

このことに尽きると思います。

 

念佛唯一行 一切自己全託 信楽開発 報恩感謝

 

2016.4.5 追記)

 

ただ念佛は、法蔵菩薩の思惟の結論であり、それは、必ず、浄土へ往生させる、

という決意、覚悟だと味わいます。いつ、どこで、どんな状態、どんな心を

抱えようとも、今の、そのままの、一切の汝をこの弥陀が引き受ける、

という本願を成就する為の名号、これを正定の業と名づくと頂きます。

 

今のあなたの心のままに、今の私の心のままに、念佛申せ、これが

如来の本願であり、それに相応することで、信楽が開発する、と体解します。

 

本願と共に。