南無阿弥陀仏は、畢竟、最後の言葉だと思う。
なぜなら、ただ念仏申すことが、そのまま自分の一切を弥陀に託すことに
なるからだ。
最後の言葉。
これは、通常、私たちが日常生活を送る中で、ただ念仏申すと思う心は
発起しない。
そこにやはり、念仏を自分の力にする、念仏を回向して、助かろうとする心が
どうしても離れない。このことを二十願の念仏と味わう。
十八願の念仏とは、非常時の念仏である。
非常時とは、何も間に合わなくなる時と体解する。
そして、間に合わなくなる時は、いつも背中にひっついている。
わたしは無常の世にすんでいるからだ。火宅無常の世界。
何も間に合わないとは、自分の当てにしていた一切が、
ひっくり返ってしまった状態のことである。
また、ひっくり返るものを、ひっくり返らないものと信じる心を、
顛倒と教えてくださる。よろずのことみなもって、そらごと、たわごと、
まことあることなし。
間に合わなくなるとき、自我がわたしを責め、
この先、どうやって生きていけばいいか、全くわからない時が生じる。
そこで、初めて、本願に、念仏に目がいく。
仏法は年老いてから聞けばいい、と思うかもしれないけれど、
やはり普段から身を浸さなければ、どこまでも自分の心に引きずられて、
むなしく終わってしまうのだと思う。
そして、普段から、本願を聞かせて頂く、称名念仏していればこそ、
非常時に、本願に遇うことができるのだと味わう。
念仏は最後の言葉、非常の言葉。ただ念仏のみぞまことにておわします。
でも、はじまりの言葉でもあり、感謝の言葉であり、哀しみの言葉でもある。
念仏は不思議です。