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むなしさとともに

徒然なるままに、真宗の味わいを書いていきたいと思います。不快な方は、予めご遠慮ください。

16.5.10追記)聴聞

結局、自分自身の生きている意味を見つけるためには、

末とおりたる慈悲に、全託する以外に術がないように思います。

 

まかせる、ということは、託すことだと思います。

 

では全託するには、どうすればよいか。

 

ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし、のお言葉のとおり、

ただ念仏するしかない、と味わいます。念仏一行であります。

 

わたしは、わが身の外にある一切のものでは、間に合いませんでした。

 

なにひとつ満足することができませんでした。

 

間に合う、というのは、いつでも、どこでも、どんなときでも、

わが身、わたしに寄り添ってくださることだ、と体解します。

 

三帰依文に『大道を体解して』というお言葉があります。

 

「身」はすごく大事だと感じます。

 

身を通して、仏法を聞いていかなければ、

自分の問題として、自分ひとりの教えと頂いて、聴聞しなければ、

ものがたりとして、学問、社会学の中の仏教として、浄土真宗として、

そういう聞き方しかできないのではないかと思うのです。

 

それは仏法ではない。

それでは、『世間の事柄の一つ』になってしまう。

聴聞は名聞利養のためにするのではない。

 

わが身、わが心、自分自身の精神の解決のためのものです。

 

親鸞聖人が、親鸞いちにんがためなりけり、とおっしゃった慶びは

その方向では決して得られない味わいだと思うのです。

 

なぜ阿弥陀さんがわたしひとりを憶念してくださっているのか、

なぜ名号、声の仏、言葉の仏になってくださったのか。

なぜ逃がさないとおっしゃっているのか。

 

南無阿弥陀仏の名号のいわれ、理由、阿弥陀さんの気持ち、

法蔵菩薩の哀しみ、くやしさを聞かせて頂く事を聴聞というのだと味わいます。

 

そして、身を通すということは、とても苦しく、逃げ出したくなることも

あると思うのです。孤独であり、誰も理解してくれないものです。

 

でも、決してあきらめることなく、苦しみながら、もがきながら、

涙を流しながら、念仏申したいと思います。

 

それだけの価値が、ひと、という命を頂いたことにはあると、

わが身に頂いております。

 

2016.02.09追記)

身を通して、聞く、あるいは、聞かせていただいたことを

確かめる、自分の体を通して、これに尽きるのではないかと感じます。

身を通して、仏法と、わが身、わが自性に、命を懸けて、対峙しなければ、

遇うことはできないのかもしれません。

それを難中之難無過至とおっしゃっていると味わいます。

 

2016.05.10追記)

本当に大切なのは、佛の因位(法蔵比丘のまごころ)を聞かせて頂くことだと

教えて頂きました。

 

仏願の生起本末というのは、本願は誰のためのものか、

なぜ建てずにおれなかったか、それがわたしに出遇えたらどうなるのか、

結局、法蔵比丘のまごころ、にすべてが収まると思うのです。

 

南無阿弥陀仏も結局は、法蔵比丘のまごころ、讃仏偈の最後のご文に

尽きると信じます。この言葉は、本当に大切なご文だと味わいます。

 

仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔

 

たとえ、どんなに私が苦しみを重ねようとも、

絶対に、あなただけは、本当に幸せにならなければならない、

そのためには、私はどうなってもかまわない。

わが本願が成就するまで、決して諦めない。歩み続ける。

 

これが法蔵比丘の願い、阿弥陀仏の本願だと体解します。

そして、これは如来の前で誓われたまことの言葉であります。

 

どうか、この願いに気づいてほしい。

その呼びかけが南無阿弥陀仏であります。