それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきことは、
この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり(御文章 白骨の御文)
今日は、とても寒い。
手足、つまさきまで、ひんやりする。
誰もが老う。
いやでも病気にかかる。
いずれは、たった一人で死んでしまう。誰も替わってくれない。
これは、誰もがその身に経験する、直接経験、
たった一人で感じなければならない事象、そして、誰にも
分かってもらえない事象であると感じます。
それらが、わが身に降りかかってきたとき、
どうして、私がこんな目に。
私が何をした、というのか。
普通はこんな風に考えるし、私も考えます。
なぜ、自分が、こんな風にしか、到底思えません。
しかし、これらを勝縁に仏法とご縁を結ぶことができれば、
転じることができると思うのです。
転じる、ということは、その事実は変わらないことです。
しかし、事実は変わらなくても、それを受ける私の意味空間が
変わるならば、障りを障りと認識しなければ、それらは、無碍となります。
自分で無碍にすることは不可能です。
では、誰が無碍にするのか?
如来であります。
如来の智慧が転じてくださる、そう体解します。
そして、その出遇いは、ただ念仏によって、開きました。
気がつけば、三十路を過ぎています。
日々は瞬く間に過ぎていきます。
時は止まらない。進み続ける。
しかし、それでも仏縁をいただけたことは、これ以上ないご縁だと
感じています。