むなしさとともに

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いかなるふるまいもすべし

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし(歎異抄 第13章)

 

国民的アイドルのことや、タレントの問題で、

あれはダメや、とか、いろいろ批判とか、批評するのは簡単だ。

 

そして、それで自己満足していればいい。

 

自分には、彼ら、彼女の問題、あるいは、宗教紛争や親が子を殺し、

子が親を殺す、世間的に「ありえないこと」であっても、

それを平然としかねない自分を常に抱えている。

 

だから、正直、他人様のことをどうこう言う、判別する、資格が、

根本的に欠落している。

自分は、言いたくもないし、言うこともできない。

 

平素、普段は、いい。

わたしはわたしをコントロールできる。と思っている。

 

ただ、非常のときは、全く、そういかない。

 

 

いったん縁がもよおせば、自分は何の躊躇もなく、

そういうことを平然としかねない、そういう私を抱えている。

 

自分の根っこは、真っ黒だ。完全な悪、完成された悪。どす黒い悪。

そして、それは誰にも話すことができない。

 

その深淵さは底知れない。自分の知恵では、分かりようがない。全く分からない。

 

しかし、それを憐れみたもうて、座視することができず、

向こうのほうから、呼びかけてくださる方がまします。

 

阿弥陀如来如来の本願力。

 

ここにおるぞ。お前を決して捨てぬぞ。

 

そのままじゃぞ。

 

この「そのまま」は、もはや、そうせねば日暮が立たず、どうしても、

やめることができない、やめたら死んでしまう、そういうわたくしに

対する「そのまま」であります。

 

そして、それは自分に対する絶望であり、そのまま、

如来に対する絶対の信頼でもあります。

 

そして、この自分は、その「そのままこい。引き受ける」の仰せに

うなずかなくては、もはやどうしても生きていくことができない、

そういう状態であります。

 

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。

さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、

たすけんとおぼしめしたちける、本願のかたじけなさよ。

 

絶望と希望が裏表。如来とわたしも裏表。

鬼と仏が同居する、という詩もあるみたいで、

自分はそういう日暮をさせて頂いております。