むなしさとともに

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選択本願念仏

自分は迷う。

 

迷うのは、どちらがよいか、どっちが得するか、それを計るから迷う。

 

阿弥陀さんは、自分のことを深く、深く、ご存知で、

沢山あったら迷うだろうと、お念仏一つを選び、

声の仏、言葉の仏にまでなって下さった。

 

お念仏申させて頂くことで、阿弥陀さんと親密になれる、と

尊敬する先生から聞かせて頂きました。

 

本当に知り尽くし、選び尽くし、考え抜かれた、凡夫

煩悩具足のまま、命を断たずに、今生から、安心させる方法を

成就して下さった。五劫思惟之摂受と味わいます。

 

ここまでのお慈悲を聞かせて頂けば、もう自分の思いとか、

良いとか悪いとか、賢いとか愚かとか、金持ちとか、貧乏とか、

どうでもいい。本当に、もうよいのです。

 

阿弥陀さんに遇わせて頂いた歓びは、お念仏とともに相続される。

 

南無阿弥陀仏、自分はもうお念仏だけで満足です。

 

自力の念仏とか他力の念仏とかよくわかりません。

 

 

阿弥陀さんが必ず守るとおっしゃるなら、お願いしますと

 

お念仏させて頂けばよいと思うのです。

 

そこに自分を挟んで何をしたかったのだろう。悟りを得て、

 

何をしたかったのだろう。

 

そもそも、悟りを得る、とはなんだろう?自力って何だ?とも思うのです。

 

今、お念仏させて頂き、それをそのまま、南無阿弥陀仏と聞かせて頂く。

 

今の自分は、それだけで、もう十分やと思います。

 

選択本願念仏とは、他の行を捨てて、お念仏一つを選ばれたことです。

 

わけがわからない私は、そのまま、そうでしたか、と念仏申させて頂けばいい、

 

隠すこともないし、取り繕う必要もない、このままが正直な気持ちです。

 

16.02.23追記)選択とは、選ぶということ、そして、捨てるということ。如来が選んだ行を選び、如来が捨てた行を捨てる、ということ。専修念仏とは、念仏一行に全託することと味わう。一心に弥陀に帰命する、とは、この如来が他の一切を捨て、一行を選んだ念仏を専ら修めることだと味わう。修めるとは、称名念仏。称名はそのまま聞くということ。聞くということは、聞こえるということだと思う。