どうして、衆生は無常のものを求め、
それを渇望し、それさえ得られたら幸せになれる、満足できる、と
固く信じているのだろうか。どうしてそういうことになるのだろうかと。
自分の体を通して、気づいた。
結論は、智慧がないからだ。
智慧がないことは、無知である、といえると思う。
そして、無知あるが故に、顛倒する。
そして、自分自身が正しく、賢いと信じている。
自分は永久に存在するわたくしである、と思っている。
これは我執である、といえると考える。
無知を根本とした自己に執着するが故に、衆生の
煩悩は止むことがない。
そして、このことは、全く無自覚に行われ続けてきた。
だから、ずっと今まで、自分は流転してきた。
最近、たぶん、ずっと畜生界に居たのだろうなぁと思わされる。
だが、無知のわたくしは、やりたくて悪業をやっているのではない。
無自覚、全自動で、行い続ける。無知であるがゆえに。
だから、如来は憐れみたもうた。ご縁ができた。
無知を解決するために、智慧を授けようと思った。
それが智慧の念仏、信心の智慧。
今も、わが身は現存し、自分は全く無知であるけれども、
汝は無知であるぞ、と常に教えていただく故に、無知を自覚する。
なぜ、智慧を授ける、回向しようとされたのかが、
今日、身を通して感じた。
あぁ、無知だから、悪業が全くやまないのだ、と。
一切の出来事を諸仏の教えと認識することができれば、
人との出会いや苦しいこと、悲しいこと、うれしいこと、楽しいこと、
その一切から、わが身を通して、教えて頂ける事がある。
本当にありがたいと思う。
失敗を通して、仕事を通して、人との交流を通して、
沢山のお育てをこうむっているなぁとしみじみ思う。
身があるがゆえに、こういうことを感じることができる。
宿業は憎むべきものではなく、拝むべきもの、
大先輩から教えて頂いたこと、身に沁みた今週だった。
失敗やつまずきばっかりだけど、痛い思いをしないと、
身につかないのだなぁ、とつくづく思った。