目の前で泣いている人が居ても、その人の悲しみを
自分の悲しみとして、受け止めることができない。
少しは理解してあげられる、あるいは、
理解したいと思っていると、思っていた。
でも、自分には、その共感性、感受性が、まったくない。
少しある、ことと、まったくない、ことは、全然意味が違う。
自分には、まったく、ない、といえる。
それに対し、仏は、まったく差別、分け隔てがない。
ひとの痛みや孤独、哀しみをわがこととして、受け止めることができる。
自分は決して、仏になれない。
日ごろのご法話では、それを聞きに行っているようなもので、
自分自身のことを言い当てられることは、本当の自分にとっては、
耐え難く、嫌でたまらないこと、のはずだけれど。
なぜか、法縁に遇わせて頂きたい、と思う心が立ち上がる。
まったく感受性がない自分だからこそ、ほんの少しでも、
その人の痛みを和らげたり、ほっとする一瞬を創れたならそれでいい、
と思うのかもしれない。
本当に、自分の心には、仏さんの話を聞きたい、
と思う心は全くないなと思うのである。
なんで念仏してるのだろう、仏さんの名前なんて呼ぶはずがないのに、と
首をかしげることも少なくありません。
無為自然、本願力のはたらきなのでしょうね。