親鸞聖人の夢告の意味が、曖昧な感じだった。
実感に乏しく、ピンとこなかった。
往生要集を拝読し、身に堪え、実感が伴った。
罪人は地獄で、獄卒に叫ぶ。何ぞこれは、なぜ私は、こんな目に遭うのかと。
獄卒は答える。
汝は、造悪の業因によって、悪果を受けているに過ぎない。
自分でこしらえた業に引かれて果を受けるのは自然の結果である。
なぜ愚痴を申すか。
自分は、造悪をやめる事ができない。やめるということは、
死に等しい。どうしても、どうしても、やめられない。
観世音菩薩は、汝の罪を引き受け、共に往生するぞと、
聖人に告げた。
もう、何にも間に合わない。
間に合うというのは、根機に相応すること、と体解する。
八万四千の教えがあっても、私の自性に相応するものは、唯一と聖人は仰る。
それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。
如来の本願を説きて経の宗致とす、すなわち仏の名号をもって
本願成就のために名号を選択された心の背景を、
生活を通して確かめていかないといけない。
本当にきつい教えだと思う。でもその後ろに、如来まします。
如来まします故に、日暮しが成り立つ。
極重悪人唯称仏がとても重たい。