ずっと自分を憎み、軽蔑してきた。
自分自身を許すことができなかった。
自分の人生は、そういう歩みだった。
すべてがむなしく、無意味に感じ、
他人の痛み、想いに心を馳せることなく、
自分のことばっかり、それ以外に心にはなかった。
その結果が、むなしさだった。何もかもどっちでもよい、だった。
私は如来に出遇った。
出遇いがそのまま自分を許すことになった。自分を受け止める大きな大地となった。
そのことを不可思議と味わう。如来が居るとか居ないとか、自分には疑う余地がない。
これを信知というのだと思う。身を以って、如来を体解するからだ。
本当に甘え、寄り掛かれるものに出遇えた。畢竟依。
自分自身の事実、存在全体を許し、認め、受け止めてくれる、
自分の生には、歩みには、答えがあり、意味が在った。
今はこう思う。思いが湧いて来るといえるのかな。
煩悩よ、ありがとう。宿業よ、ありがとう。
おかげさまで、いつも阿弥陀さんの所に戻れる。心が向くよ。立ち返ることができる。
おかげさまで、阿弥陀さんと、絶対に切れないご縁ができたよ。
自分にとっては、念仏とは、
自分自身を許し、受け止めさせる、大きな力。堪えさせしむる支え。
これが自分にとって真実であり、如来であります。
念仏を申そうが、申さまいが、関係ない。
すべては本願と共に。