言葉では、とても言い表せない浅ましさを抱えている。
自分には、他人を思いやり、他人の痛みに心を通し、ともに傷む、
涙を流す、そういう感受性、共感性が全然ない。
本当に自分だけよければ、わが身だけよければそれでいいのだと思う。
そういう浅ましさを抱えながらも、浄土や如来、菩薩という、
共感性、慈悲の極みに、うっすら憧れを抱いているような気もするけど、
現実は、仏法を無視し、煩悩を貪っている。
でも、嘆くなよ、とおっしゃってくださる。最近、自分がありがたいなぁと思う、
ご和讃です。
(36)
無明長夜の灯炬なり (念仏は、真っ暗な長い夜の灯火(ともしび)である)
智眼くらしとかなしむな (智慧がないと悲しむな)
生死大海の船筏なり (弥陀の本願は、人生の大海原の船や筏(いかだ)である)
罪障おもしとなげかざれ(だから己の身の浅ましさ、罪の深重さを嘆かなくていい)
(37)
願力無窮にましませば (本願力には限界がない)
罪業深重もおもからず (どれほど罪を重ねてきた私も障りなく引き受けてくださる)
仏智無辺にましませば (仏の智慧は、無限無辺であるから)
散乱放逸もすてられず (心が常に乱れ、勝手気ままな私も捨てられることはない-摂取不捨)
(38)
如来の作願をたづぬれば(弥陀の本願がなぜ建てられたのかを尋ねれば)
苦悩の有情をすてずして(苦に沈没する私をどうしても捨てられないと立ち上がり)
回向を首としたまひて(選択本願念仏、菩提心を私に差し向けて下さり)
大悲心をば成就せり(私の存在全体の事実、宿業に今生、本願は成就した)
この弥陀が汝を引き受けるぞ、大丈夫。
願力無窮。これほど当てになるものは私にはありません。
本願とともに。南無阿弥陀仏