むなしさとともに

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追記あり 大道を体解する

自分自身のわが身について。

 

この身体は、根本的に、仏の教えに背き続けなければ、

維持できない構造、性(さが)となっているように思えてならない。

 

貪らなければ生きられない。役に立たない、と分かっていても、

ほしい。渇愛が止まない。

 

理解できない、のではなくて、根本的に、はじめから、

理解する能力がない、というのが正しいのではないかと思う。無知。愚。

 

五劫思惟、兆歳永劫という言葉は、理解できなさすぎて、

あまりに簡単に使っているのではないかと思う。

 

無上佛にして、それほどの時間を費やさせるほどの代物がわたし、わが身、という

ものということなのではないか。

 

すると、今という時間には、どういう意味があるのか。

罪を造り続ける自分にどういう意味があるのか?と思う。

 

自分の領解は、今生では、何の力もないけれども、一人でも、一つでも

多くの命とご縁を結び、次生で、一味平等となる、

あるいは、仏説はまことである、ということを身をもって、理解せよ、

という意味があるのではないかと思う。

 

あまりにも因果律を撥ね付けている。というか、受け入れられないのが、

わが身の現実といえるのではないだろうか?

いや、そもそも、何が善で何が悪でさえ、判断できず、

わけが分からないことをせねば日暮が立たないのだから。

 

そういうことを生きることを通して、

身を通して、実感し、一つ一つ確かめていくことになるのだろうなと思う。

 

なぜなら、自分はわが身の外には一歩も出られないのだから。

この身に縛られているのだから。身をもって知れ、と頂こうと思う。

 

転悪成善の悪を見つめないといけないのは、つらいけれど、それも

必要だと思う。仏に徹底的に己を知らされていくことが、自分に

与えられた命の意味ではないだろうか。

 

17.03.19追記

 

自分のいのちに意味があるかないかわからない。

ただ如来がわれに任せよと仰るので、任せますと念佛を

申すしかないので。それでいいやと思っています。

18.04.21追記 沢山のアクセスを頂いているみたいで この言葉を噛み締めますと、 今はひたすら聞くばかりであります。 念佛の目的は念佛であると先人は 仰いました。宿善とは積むものでなく、 今ここに名となりことばにまで なって下さった大悲、法蔵の大悲が 宿善、往生の時節が到来していることで ありましょう。 ひたすら道を聞き開き まことのみむねいただかん(真宗宗歌) 煩悩具足のわれら、みなもろともに 往生を遂げたし。


2019.09.15追記

大道というと難しい感じがしますが、

最近改めて思いますのは、

自分一人ではなんにもできないんだな、

あまたのいのちと共に自分もあらしめら

れているのだなと身にしみて体解すると

いうことが大切なことだということです。

独りで生きていける、誰の助けもいら

ない。全て妄想でした。それを否定できぬほど

徹底して教化して下さるのが本願念佛、

念佛の信心であります。それが、

念佛往生ということでありましょう。

煩悩はなくなりません。

自身の体質を問い続ける果てに、

必ず浄土に到らしめられる。

往生とは生活である。曽我量深先生の

言葉を有り難く思います。

現実から離れたが、もう一度現実に

身を沈め、いのち果てるまで

仏法を確かめていく。これが

念佛往生だと僕は思います。

2020.02.12追記

往生は心にあり、成仏は身にある。

曽我量深先生の言葉と聞いております。

体解。このお言葉は重大な言葉だと

察します。

頭で理解したこと、と、

実際に理解したことを現実に表現し、

かつ、再現し続けること、あるいは、更に


深めていくことは、別のことであります。

本当に信心決定したというなら、現実に

どう念佛の信心を具体化していくか。

すなわち、信心を血肉化するか。

こういう問題だと思うのです。

現実を厭うのでなく、腐った現実に

どう抗うのか、これが往生の問題で

あります。心境の問題ではない。

酔いは気持ち良いもの、ただし、

必ず冷めるものであります。