むなしさとともに

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帰命無量寿如来

無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる』

 

親鸞聖人の正信偈の最初の箇所のご文です。

 

帰命も南無も同じ。

 

自分の存在全体の一切を託すことである、と味わいます。

 

ご法話では、まかせる、とよく聞かせて頂きます。

 

誰に。

 

限りなき命と光の仏、無量寿如来(不可思議光如来)、

阿弥陀さんに。

 

何を。

 

これが判然としない。一体、何を、どうまかせるのか?

 

これを聞かせて頂くのが、お聴聞と教えて頂きます。

 

どうまかせるも、こうまかせるもなく、ただ口になむあみだぶつと

 

称名念佛させて頂くばかりです。

 

自分は、これをただ念佛して、

 

弥陀にたすけられまいらすべし、と領解しています。

 

でも、どうしたらまかせられるのか?

 

自分が、自分以外の一切が、自分そのものを支える力が皆無であることを

 

知らされたとき、だと感じます。まったく間に合わない、役に立たない、と。

 

このことを、

 

『真の宗教』(私は弥陀の本願、ただ念佛と頂きます)

 

とは、生きる為に必要とするもの一切が、必要ではなくなったとき、

 

『初めて』必要になるものである、とある学者の方は仰ったそうです。

 

自分が間に合わないものであることの気づきがそのまま

 

無量寿如来に帰命する、すべてを託す、ということになるのでは、と

 

味わいます。不一不二。この言葉は、裏表のことだと領解します。

 

二つのことではなく、一つのことの二つの側面であると。

 

自分は、無量寿如来に帰命させて頂き、本当に良かった。

 

やっと自分の空白の答えが見つかった、そういう実感のもと、

 

毎日を送っています。

 

ただ、それは、自分は絶対に仏になれない、成仏の因縁がゼロである、

 

ということを、日々聞かせて頂くことであり、それは、決して自分では

 

聞きたくないことであります。

 

しかし、それが聞かずにおれない、気になる、というのは、

 

全く自然のもよおしであり、如来の憶念の心が動かしめているのだろうなと

 

お聞かせに預かっています。

 

本願と共に。南無阿弥陀仏