むなしさとともに

徒然なるままに。自分のために、そして、いつか如来に出遇う誰かのために。

聖道の慈悲と浄土の慈悲

詳しくは、歎異抄にてご覧下さい。ここでは省きます。

 

自分がこれらの言葉をどう感じているか、文章を通して、

確かめたく存じます。

 

聖道の慈悲とは、人間の思いやりのことだと思う。

 

小さき命をいつくしみ、育てたり、ボランティアや寄付に限らず、

肉体・知的労働で社会とつながりを持ち、生きる。

 

これらは素晴らしいことだと思う。

 

でも、これらは、ひっくり返る。

 

自分にとって間に合っている間はいい。口先はどんなことでも云える。

 

でも、いざ自分が被災したり、困難辛苦に遭遇したとき、あるいは、

誰かに裏切られたり、身に覚えのない言葉を聞いたりした時、

自分には、とても思いやりをもって、相対することができない。

 

貪瞋煩悩。

 

自分の都合、自分にとって役に立つ間は、かわえやと言う事ができる。

 

でも、いざ自分にとって邪魔、重荷になるようなことであれば、

たとえどんなものであっても、憎み、排除しようとする心が

立ち上がってくる。

 

ダメだとわかっていても、既に因は我が心、わが身に具足しており、

外縁と和合して、その状態に陥る。これは逃れることができない。

 

故に、続かない。折れてしまう。

 

対する、浄土の慈悲とは、弥陀の本願を指す。

 

弥陀にとっての自利、利他すなわち、救う主体と救われる客体が

伴に感動、感謝する世界、浄土を衆生の心に展開する。

 

浄土は、どこかにそういう国があるのではない。

 

心に顕現する状態のことを指す、と味わう。

 

浄土、如来、本願、念佛。言葉は違えど、心は一つ。

 

すべては本願に収まり、衆生の内面には、信心、信知、

 

衆生の外面には念佛、帰依という形で現れる。

 

本願は、無量寿、無量光によって、裏づけされており、

摂取不捨であるが故に、やむことがない。永遠である。

 

どうか、本当の願いに目覚めてほしい。

 

本願と共に。南無阿弥陀仏