むなしさとともに

徒然なるままに、真宗の味わいを書いていきたいと思います。不快な方は、予めご遠慮ください。

自分とは何だろう?

事実は、一切の物事を先行している。

 

すでに在らしめている、あまたの関係性の中で、自分というものを

存在たらしめている。一切の、いのちあるものを、願っている。

 

このことを親鸞聖人は「無為自然」とか「本願力」と表現されたのではないかな、

と思うのです。

 

不安、孤独が生じる背景は、「わたし」があります。

 

「わたし」の思い、「わたし」の願いは、叶わなければならない。

「わたし」の思うような「自分」でなければならない。

 

「わたし」「わたし」「わたし」

 

では「わたし」とは何なのだろうか。

 

最もわかっているはずなのに、わからない。

はっきりしない。

 

なんで「自分」は存在しているのだろう?

 

全然わからない。

 

結局、「自分」自身を最も邪険に扱い、忌避していたのは「わたし」でした。

 

「わたし」は「わたし」の思いに沿わないものを「わたし以外」に分けます。

 

これを分別智(ふんべつち)と呼ぶと味わいます。

 

分別智は、すべて「わたし」にとって「都合のよいものか、悪いものか」と

 いう「ものさし」を以って判断しますが、このものさしは、

 「時」「場所」という「条件」によって、そのつど変わるものであり、

 全く一貫性がありません。

 

そして、その根拠は、「わたし」が勝手に思っていること、

「妄想」であり、「妄想」を基準に分別するがゆえに、「ひっくりかえること」を

「決してひっくり返らないもの」と誤認し、信じながら日暮をしています。

 

このことを「顛倒」(てんどう)と呼ぶのだと思います。

 

この中では、どうしても「ひっくりかえらないもの」に会うことができません。

 

なぜなら、既に「わたし」が「顛倒」しているのだから。

 

だから、「自分」を「わたし」は絶対に許すことがない。

 

なぜなら、「自分」は「わたし」の思うとおりにはならないのだから。

 

そして、「自分」は「わたし」を超えることができない。

 

なぜなら、「わたし」は「自分」よりも、より深いところに根ざしている故に、

 

「自分」よりも常に「上位」に存在している。だから、「自分」ではどうしても、

 

「わたし」を超えることができない。やられる、迫害される一方です。

 

なにもかも捨てたとき、最後まで「自分」に牙を向いてきたのは「わたし」でした。

 

だから「自分」も「わたし」さえも含んで受け止めることのできるものに、

 

託す(おまかせする、委ねる)しか、行き詰ってしまった「自分」には

 

道がありません。唯一の末路であります。

 

では、その受け止めるものとは、なんぞやというと、それが「弥陀の本願」で

あり、その本願が具体的な姿をもって現れた、それが「名号」であり「念佛」だと

体解します。

 

そして、「念佛」が本当に心に届き、本願を疑う心が滅された状態を

 「信心」あるいは「信知」というのだと理解しています。

 

 追伸:ある先生のご著書では、

 

「自我」と「自己」という言葉で表現されていました。

 

この記事では、前者を「わたし」、後者を「自分」と表しています。

 

「自己」はもともとあるけれども、絶えず、「自我」に抑圧されており、

現れていない。

 

「自我」の殻が、念佛によって破られたとき、初めて「自己」が姿を現す。

 

それが「あぁ、自分は自分でよかったのだ」と自分を受け止めうるものに

出遇えた、ということになると感じています。

 

そのことを、自分において、本願が成就したと申します。

 

本願とともに。南無阿弥陀仏