むなしさとともに

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むなしさとともに①

突然ですが、ブログのタイトルについて、

「むなしくない」から「むなしさとともに」に

変えようと思いました。

 

理由は「むなしさ」は否定すべきものではなかった、と

教えて頂いたから、です。

 

これは、自分にとって、とても驚いたことでした。

 

むなしさが一本の糸で繋がって、あぁ、そういうことだったかと

腑に落ちた思いがしました。

 

実は、少し前から「むなしくない」という言葉に違和感を感じていました。

 

なぜなら、「むなしくない」は「むなしい」を否定していると

思うからです。

 

ずっと自分が幼いころから感じていた、言葉にできない思いが、

この「むなしさ」でありました。

 

本来、思いとは、心で思うとか、は自分が主体的に感じるとか、

言葉でいうなら「起こす」ということに近い、そんな感じがします。

 

たとえば、おなかがすいたから食べたい、

とか、あの人好きだ、嫌いだ、とかでしょうか。

 

しかし、「むなしい」という思いは、自分が起こすのではなく、

不思議とどこからか、そういう思いがわいてくる、こういう感覚に

近いものでした。

 

自分の生きている意味がわからない。

勉強して、何になる?

大学まで進んで、就職して、そこからどんな意味がある?

 

考えても分からないし、誰も応えてくれない。

 

だから、「むなしさ」を否定して、何かでごまかして、その場をしのぐ、

こういう歩みが自分のこれまでの歩みでありました。

 

しかし、この思いは、自分が思うよりも先に生じる思いでした。

 

これを親鸞聖人、あるいは仏法では、「自然」(じねん)と

いうのだと教わります。

 

自然とは、おのずからしからしむということ、であると。

それは、如来とのご縁によって、起こってくると。

如来とは、無上仏であります。

 

自分にとって、「むなしさ」というのは、本当の自分自身が、

自分を本当に受け止めてくれるものに出遇いたい、という思いだったと

教えて頂きました。

 

つまり、ずっと自然のはたらきがわたしに、汝は今のままでよいのか、と

問いかけていた、そう思うのです。

 

だから、自分にとって、むなしさとは、

自然、自然とは本願力との深いご縁であった、

ずっと自分とともに居てくださった、とそういう意味に転じました。

 

だから、「むなしさ」とは否定すべきものではない、本当は有難いものだった、と

そう頂きたいのです。だから、せめて、これからは否定したくないのです。

 

次に「むなしさとともに」の『ともに』、について、

味合わせて頂きたく存じます。

 

もしよければ、またお越しいただければ嬉しいです。

 

本願とともに。南無阿弥陀仏