むなしさとともに、の「ともに」についてです。
「ともに」は、共にであり、友にであり、倶にであります。
本願は、常に十方衆生、具体的には、
わたしいちにんに、いきとしいけるものすべてに、平等に
かけられた純粋な願いです。
私は、今、本願と共に在る。この自覚が、
自分にとっての支えであります。
「むなしさ」とは、自己及び世界には、何一つ、一貫して、貫く、
貫徹するようなものはない、のかもしれない、という
泉のようにわいてくる思いでありました。
それは、否定するものではなく、浄土真宗に出遇えたご縁でした。
故に、影の如く身に沿っていて下さった、友であります。
倶に。倶会一処(阿弥陀経)
わたしには、貫徹するものは何一つない。
わたしは凡夫である。
この自覚の裏には、絶えず本願、念佛がまします。
故に、永遠、まことであると親鸞聖人から聞かせて頂きます。
本願とは、無量寿、無量光だからです。
そして、不思議なことに、この自覚は、人間であり、
仏法とご縁を頂き、念佛に出遇えたなら、すべての人に立ち上がってくる
平等な、一つの想い、と聞かせて頂きます。
この自覚の共有が、浄土であると味わいます。
そして、浄土では倶に、一つの想いを、すべてのいのちと共有できる。
そのことを倶会一処というのだと味わいます。
しかし、
浄土は、死んでからの話ではなく、今、ここで開く世界です。
本願とともに。南無阿弥陀仏