むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

摂取不捨 目的と手段の合一

目的と手段は別々であり、手段は目的を達するための方便である。

 

世間一般の考え方だと思う。

 

しかし、これだと問題が残る。

 

一つは上下の問題。

 

二つは持続の問題。

 

前者は、目的が手段よりも優位に立つ。

 

後者は、目的が達せられた後、新たな目的が必要となる。終着点がない。

満足できない。

 

本願に遇うということを、自分なりに領解するならば、

 

生きること、そのものが、目的となる、ということだと味わう。

 

生きること、わが身には、必ず如来がかげのごとく寄り添う。

 

故に、常に煩悩即菩提。

 

煩悩のわが身そのままが、如来との決して切れない絆に

転じてくださった。

 

故に、本願とともに生きること、自分の浅ましさを見つめることそのものが、

生きる目的となった。

 

本願の根拠は、光明無量(智慧)と寿命無量(慈悲)であり、永遠である。

決して途絶えることはない。超世願。

 

だから、摂取不捨。大悲無倦常照我身。常にわが身を照らして下さる。

 

本願とともに生きることが、目的であり、手段であり、おのおのは、

もはや分けることができなくなった。

 

このことを不一不二。表裏一体と味わう。

 

本願に遇わせて頂いて、本当に良かった。

 

どうか、お念仏とともに、ご本願とともに歩んでください。

 

答えはいつでもそばにあります。

 

答えとは、いま、ここにひらく、一念であります。

 

本願とともに。南無阿弥陀仏