目的と手段は別々であり、手段は目的を達するための方便である。
世間一般の考え方だと思う。
しかし、これだと問題が残る。
一つは上下の問題。
二つは持続の問題。
前者は、目的が手段よりも優位に立つ。
後者は、目的が達せられた後、新たな目的が必要となる。終着点がない。
満足できない。
本願に遇うということを、自分なりに領解するならば、
生きること、そのものが、目的となる、ということだと味わう。
生きること、わが身には、必ず如来がかげのごとく寄り添う。
故に、常に煩悩即菩提。
煩悩のわが身そのままが、如来との決して切れない絆に
転じてくださった。
故に、本願とともに生きること、自分の浅ましさを見つめることそのものが、
生きる目的となった。
本願の根拠は、光明無量(智慧)と寿命無量(慈悲)であり、永遠である。
決して途絶えることはない。超世願。
だから、摂取不捨。大悲無倦常照我身。常にわが身を照らして下さる。
本願とともに生きることが、目的であり、手段であり、おのおのは、
もはや分けることができなくなった。
このことを不一不二。表裏一体と味わう。
本願に遇わせて頂いて、本当に良かった。
どうか、お念仏とともに、ご本願とともに歩んでください。
答えはいつでもそばにあります。
答えとは、いま、ここにひらく、一念であります。
本願とともに。南無阿弥陀仏