私の住むこの世界のことを、仏法では、
娑婆(しゃば)と示して下さっている。
娑婆とは「堪忍の土」(かんにんのど)という意味があり、
この世界は「耐え忍ばねばならない場所」であるという教えです。
人はよく「苦しい」といいます。
仏法における「苦」の意味は「思い通りにいかないこと」であります。
苦しいといわずとも、
「むかつく」「うらやましい」とか、そういう思いは誰にでもあるはず。
「むかつく」とか「うらやましい」とか、これらの心は、表面に過ぎず、
その根には「貪欲」があります。
その心は、
「一切は、自分の思いのとおりにゆく」「わたしの願いは叶う」と
信じている心と味わいます。
つまり「思い通りにいく」という思いが「思い通りにいかない現実」に
直面する故に「苦しい」、「死にたい」と感じさせる因である。
しかし、その心の更に潜む根源は「我執」(執着する心)であり、
ただその心が思っているだけ、でその思いの根拠はない。
だから、「私の思い通りにいかない世界」は「堪忍の土」であります。
そして、貪りや怒りの心は死ぬまでなくなりません。
しかし、自分はそういう所に住んでいるし、そういう心から
離れることができない、沈没しているのだな、と観る。
如実知見。
これが、如来の智慧であり、これが、
法蔵比丘がわたしに回向するために成就してくださった、
南無阿弥陀仏の御名号であります。
如実知見とは、あるがままに見るということ。
愚かなわたしを、愚かであると確かに受け止めること。
今生は、娑婆という世界に身をおいているため、耐え忍ばねばならないこと。
花を花と見て、木を木と捉える。
歩くときは、歩くことと一つになる。
これが、思い通りにいかないことを、思い通りにいかないままで、
解決する妙法であると体解します。
死ぬときは死ねばいい。生きているなら、生きればいい。
苦を苦と受け止める。それが苦を苦を無効にすること。
転ずる如来の力。
力なくして、娑婆の縁の尽きるとき、
そこには、自分の行くべき処が既に準備して下さっている。
因があれば、必ず果が出る。
今の今まで、因が自分にないことを知らなかった。私には智慧がない。
しかし、因があれば、必ず彼岸に至る。必然と頂きます。
本願とともに。南無阿弥陀仏