浄土真宗にご縁を頂き、よかったなぁと思っています。
親鸞という方がお出ましにならなければ、
法然聖人のただ念佛の心がわからなかった、
つまり、自分が本願に出遇うということは、決してなかったと思います。
自分と同じ人間の姿をして、生きておられた、この事実に驚くとともに、
有難いなと思います。
私は、なんにもわかりません。仏法を聞く前も、そして、今も、何にも
変わりません。ただ、一つ違うとすれば、自分の思いに引きずられながらも、
「本願に還れ」の仰せに従い、その都度、その都度、心の拠り所に
立ち返っていることでしょうか。
悟り、ってなんでしょうか?全然わかりません。
わたしは、何にも分からないまんま、
ただ如来の仰せに随っているだけであります。
そして、それが、魚が川の流れに沿って泳ぐように、
自分本来の自然な姿なのだろうな、と思っています。
悲しいこと、苦しいこと、思い通りにならないこと、たくさんあります。
しかし、一点において、立ち返る場所があれば、
その一点が、決して変わらないものであれば、
常に、そこに戻ることができます。その一点は、無量寿、無量光に
裏打ちされた、一点と頂きます。
私は、そのことを『如来』『浄土』『信心』と仰っていると体解します。
言葉は違えど、その心は一つです。言葉に囚われてはいけない。
そう聞かせていただいております。
凡夫は凡夫のまんま、でよい。
汝、念佛申せ。
この一句に、
如来のまごころが籠もっている、そう味わいます。
本願とともに 南無阿弥陀仏