むなしさとともに

徒然なるままに。自分のために、そして、いつか如来に出遇う誰かのために。

清沢満之先生

本日、6月6日は、清沢満之先生のご命日と伺っております。

 

先生の著書に触れる機会があったため、その中で

 

印象に残った箇所を、記します(清沢満之語録:岩波現代文庫今村仁司編訳)

 

 

他力門哲学骸骨(試稿) 他力信行(P155)

 

 

他力門の信と行はまさに前節で述べた妄見の根本を除去するものであるからだ。

 

除去のしかたはどのようなものであろうか。

 

この信と行はまさに、有限と無限の関係を覚知する

 

(すなわち無限の大悲を覚知する)ことからおきるものであって、

 

悟道の根底に完全に達するものである。

 

悟道の根底に達したのであれば、迷界の根源を除去することになるのは

 

当然である。

 

(悟道と迷界は両立しないからである)

 

もし迷界の根本がすでに除去されたとしよう。

 

そのとき枝葉は自然に枯れ落ちるにきまっている。

 

だから他力門では妄見について多言しないのである。

 

ただ無限の覚知はもっとも重要なことであって、

 

この覚知の相続はじつに教えの眼目をなす。これを信行といい、

 

また信覚真習ということができる。

 

(略)

 

では、どのようにしてこの真覚が迷情の根本をまっすぐに切断できるのであろうか。

 

ほかでもない、これは無限の妙用によるのである。

 

 

 

これらの文章を伺うに、仏法、親鸞聖人、清沢先生の教えは、

 

常に「根本」を問題にされている。そして、論理的である。

 

わたしは枝葉ばかりを問題にしてきたが、いくら枝葉を刈っても、

 

根を断たない限り、問題は解決されない。これを「流転」と味わう。

 

そして、自分自身という「根本」は自分で断つことはできない。

 

それは「自力」ではなく「他力」、すなわち、南無阿弥陀仏の名号に

 

よって、断絶される。「他力」とは「阿弥陀如来の本願力」のことを指す。

 

そして、その時節は、生きている今、訪れる。

 

そのことを、清沢先生は『無限の大悲を覚知する』と云う言葉で

 

あらわして下さったと味わいます。

 

本願とともに。南無阿弥陀仏