智慧とは、あるものをなくすことではなくて、
転ずることだと味わう。
自分の智恵、人間の智恵は分別智ともいい、これは分け隔ての心で、
Aを立てればBが下がり、Bを上げればAは下がる。
どちらかを選ぶと、どちらかを捨てる、そういうことだと思う。
そういう仕組みから逃れることができない。
根本的に、衆生は、そういう性(さが)を抱えている。
しかし、如来の智慧は無分別智。
これは、一切を在るがままに、生かす智慧であり、
苦は苦を滅せずとして、転ずることで楽を与える。
楽といっても、これは自分たちの欲を満たす「楽」ではなく、
むしろ「安寧」「安らぎ」と表現するのが正しいと思う。
すると苦は苦のままでも、受け取るわたしのうえでは、
苦ではなくなる。
このことを「転」と味わう。そして、この「転」の智慧は、
わたしが何をしようとしまいと、一方的に本願の名号の力で
起こってくる。自分の力は一切介在しない。
如来は主体で、自分は客体。本願がはたらく場として、
客体の自分が在る。
ゆえに、親鸞聖人は無碍の一道と讃えられたのだと味わう。
自分の生きている場は、堪忍の世界。この無碍のはたらきは
存在そのものを根底から支える大きな力である。
そして、それは、一切の人に開かれる大道である。
そのことを浄土真宗といい、横超の直道と仰っている。
即横超截五悪趣 悪趣自然閉 閉塞諸悪道
即とは時を隔てず、横超とは、本願力に乗托し、超えることと味わう。
それは、命の在る今、ここに一人ひとりにひらく出来事です。
一人ひとりは、そういうかけがえのない、命を生きている。
本願とともに。南無阿弥陀仏