三毒の煩悩といわれるものについては、
それは、自分の重要な課題ではない。浅ましいことに変わりはなくても、
これらは深浅でいえば、浅い煩悩であると教えて頂いているから、
自分にとって、深い痛みを覚えるものではなくなっている。
痛みを覚えるのは、執着の問題がある。
我執と法執。
法執が我執よりも、より厄介な問題であると伺う。
しかし、清沢先生は仰っている。
根を断てば、枝葉は自然に枯れる、と。
ただ、今のままで良いのかどうか、と問われると、いいはずはないし、
だからといって、術が分かるはずもないし。
ただ、聞法の先にこの課題の答えがあるのでは、と思っている。
聴聞やお聖教、仏教書を欠かせないのは、課題があるからである。
読んでも何も身につかないけれど、仏法は毛穴から沁みこむものだと
教わっているので、きっと無駄ではないのだと思う。
仏法には二つの関門がある。一つは教化で破れる。
二つは願力に依らなければ破れない(香樹院徳竜師の言葉)
二つ目の関門が、依然として残っている。
本願とともに。南無阿弥陀仏
16/06/14追伸 三毒が課題ではないなんて誤りでした。
我が身自体が、過ちや咎を冒さずにはおれないものであり、
こういうものとして、存在せねばならないということ自体が
大きな問題でありました。申し訳ありませんでした。
この課題をもって尋ねて参ります。