むなしさとともに

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述懐

煩悩とか、自力とか、本当に自分は知っているのだろうか?

 

たぶん、自分の中で思い込んでいただけで、ただのそれだけだったと

 

思う。

 

わたしが頂いている浄土真宗の教えは簡潔だ。

 

行は選択本願の念佛一行に依る。

 

ただし、それを行ずる衆生に二種あり、

 

疑のものと信知のもの。

 

しかし、信知といっても、わたしが起こす信じる心ではなく、

 

自然に立ち上がってくる、あるいは、念佛が本当に心のそこに

 

響いたときに、疑う余地がなくなることを、信知というのだと思う。

 

故に、結局、本願力に依らなければ、衆生は安心することが

 

できない。

 

逆に、本願に遇えたなら、どんな人でも、本当に今に満足できる。

 

だからといって、何もしなくていい。おまかせや、と

 

放逸することも間違っている。それは、いい加減なだけであり、

 

身に染みて、自分が間に合わない、ということを知らないだけだ。

 

本当のところは、自分自身で、仏法に云われるところの、

 

わたしの力は無力なのか、本当に間に合わないのかを確かめる、

 

あるいは、自力を尽くす、ということが必要なのではと思う。

 

なぜなら、自分自身はそうだったから。

 

なぜか分からないけれど、自力を尽くしていたと思う。

 

仏法を捨ててからも、精一杯やっていたけれど、むなしかった。

 

間に合わなかった。

 

思うに、

 

本当に道を求めている、そういう人はどれほどいるのだろうか?

 

今まで出会った人の中で、そういう人は、片手に余るほどである。

 

やはり余裕があると、仏法は響かない。全然聞こえない。

 

ただし、念佛一行は変わることはない。

 

しかし、それを受け入れるわたしに問題がある。だから、

 

念佛が聞こえない。響かない。届かない。

 

目が行かない。感謝もない。

 

自分自身、念佛に目がいったのは、本当に間に合わなくなってしまった

 

時だけだったと思う。そのとき、はじめて目がむいたのだ。

 

命を懸けてくださっているかたが、いるらしい、と。

 

何も間に合わなくなったとき、初めて、念佛が輝く。

 

相対の中の選択肢の一つとして、浮かび上がってくる。

 

それまで、念佛も本願も選択肢の中にさえ入っていなかった。

 

これが正直な自分のふりかえりである。

 

本願とともに。なむあみだぶつ。