むなしさとともに

徒然なるままに。自分のために、そして、いつか如来に出遇う誰かのために。

さるべき業縁

たくさんの方がお亡くなりになった事件が起こってしまった。

詳細はまだ見ていないから分からないけれども、

とても他人事とは思えない。

 

世の中には、信じられないような出来事が次々と起こっており、

実際に世にあらわになることは、氷山の一角に過ぎず、

とてもその全体を窺い知る事ができない。

 

仏法を聞かせて頂くということは、鏡と対峙することだと頂く。

すなわち、まなこはまなこをみることができない。

自分で自分自身のことを正しく認識することができないということだ。

 

そして、他人を裁き、批判し、悪であると分けることはとても簡単なことだ。

 

しかし、本当に裁くことができる自分なのだろうか?

 

仏法は自分に問うてくる。それでよいのか?と。

 

歎異抄のお言葉に、さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし、とある。

 

縁によっては、自分が「傷つける側」になり「傷つけられる側」になる。

 

あれは「彼、彼女なのか?」「絶対に自分ではないと言い切れるのか?」

 

つまり一定ではない。移り変わっていく。普遍的なものがない。

 

そういう不安定な歩みを絶え間なく繰り返している。

 

このことを生死流転という。

 

生死流転に沈み、今も迷い続けているのは、いったい誰なのか?

 

 

頷かざるを得ないありようしかしていない自分が、ここに居る。

 

 

そして、そういう者にめがけて、わが国に生まれんと欲え、という

純粋な願いが届く。それが南無阿弥陀佛である。阿弥陀如来とは声の佛である。

 

本願とともに。なむあみだぶつ。

 

半日後追伸

 

生き物を飼っている。そこには自然発生する別の生き物が生じる。

それらは放置すると爆発的に増殖する為に僕は彼らを摘み取った。

 

摘み取ってゴミ箱に捨てた。ゴミ箱に捨てた。

 

命を搾取し弄ぶ。食べることも本質は等しいのではないか。

たまたま対象がヒトではなかっただけではないか。

 

出来事、出会いが自分を問うてくる。

 

そして、僕はまた彼らを摘み取る。