むなしさとともに

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結果は知らない、ひたすら歩む

気がついたときから、常に自分の行動、他者、社会との関係性において、

 

見返りを求める歩みだった。

 

しかし、それが自分にとっては、どうしてもむなしいことだった。

 

むなしい、というのは、意味がわからない、ということだ。

 

何もかも。周りのひとが楽しそうにしてるけれど、自分はさめている。

 

どうして、こう楽しそうにいれるのだろうか?

 

たぶん、その答えをずっと探してきたのだと思う。

 

不思議だが、今は見返りを求める必要がない。ただ、専ら自分にできること、

自分自身に正直に生きたいと、心から思っている。

 

心口各異 言念無実(大無量寿経)と云う言葉があるが、

ありのままに、正直に生きた、そういう1年間だった。

 

初めて、一生懸命に、心を込めて歩んだ。もちろん浅ましい身と心のままに。

 

目的と手段が一つ。本願とともに生きることが、

自分の存在そのものと一つになった。

 

障り(悪業煩悩)は障りのまま、自分は自分のまま、横様に超える。

 

即横超截五悪趣。煩悩に溺れない。本願の名号に何度でも立ち返る。

 

何度でも、何度でも。これを後念相続と頂く。

 

ごみがあるから、ごみを拾う。ただそれだけ。

きれいになれば、それでいい。自分に見返りがあるとか、

ないとか、徳をつむとか、そんなのしらない。

自分は徳を積めるような身ではないのだ。悲しいけれど、

自分の浅ましさをさしおいて、ただ本願を聞かせて頂く。

 

念佛の目的は念佛。ただ念佛のみぞまことにておわします。

 

一心専念 弥陀名号。専修念佛。結果を求める必要はない。

精一杯自分を生きようと思う。

 

本願とともに。なむあみだぶつ