むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり

仏法を聞く、聴聞することを「善いことだ」と思っていないか?

 

「善い」から聞くのではない。

 

「聞かねばならない問題」を抱えているから、聞かせて頂くのであって、

 

「善悪」の区別のうえに、「善」を選んでいるから聞くのではない。

 

「善悪」に立って、仏法を聞いているのであれば、それは、

 

必ず「差別的」になってしまう。

 

だから、本当に気をつけなければならない、と教えて頂く。

 

善を選ぶと、必ず相対として、自分の逆を悪とみなす。それが自分である。

 

「聞かねばならない問題」とは、自分の存在そのものに問題がある、ということ。

 

他の命を奪わねば、存在さえ、維持さえできないわが身。

そして、差別心、貪り、瞋り、愚痴という三毒、わが身かわえやという我執。

 

こういう問題があるから、それらを超える如来の教えを聞かねばならないと

僕は頂く。

 

善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり(歎異抄

 

何が正しくて、何が悪いことなのかさえ、自分には全くわからない。

正しく見極め、実行し、選ぶ智慧がない。

自分が選ぶことは、時と場所と都合で、すぐにひっくり返ってしまう。

 

ひっくり返ることは真実ではない。

 

時、場所、人、いのちの存在。それらを全て貫くもの。

 

それを誠といい、真実といい、至心といい、無碍光如来という。

 

だから、専ら如来の教えを聞く。

 

自分にとっては、ただそれだけのことである。

 

善悪とか、因果とか、自分には皆目検討がつかない。

このような自分にさえ、悪だろうなと思わせる自分の行為は、

相当に悪なのだろうなとは思うけれど。

 

結果は知らない。ただ専ら仰せを聞く。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

180210追記

 

沢山のアクセスを頂いているので、今思いますことを。

 

如来はまじめになれと仰らないのです。

 

どうしてもまじめになれず、まことの善悪もわからず、

 

信心がない私の為に、わが名を称えるばかりで必ず助ける。

 

ほかに何もいらないと仰るのだと聞いております。

 

念佛を申せば、必ず耳に聞こえる。称えつつ聞けよの仰せ。

 

この一声のいわれを聞く。そこに親鸞一人がためなりけりと

 

述懐なさしめた無限大悲がおわします。

 

万人が平等に速やかに無上の覚りを得さしめんという大悲を

 

一途に聞くのであります。

 

人間に生まれた一大事因縁が成就するのであります。